壁一枚ぶんの子守歌
桑原の隣室からは、ときどき子守歌が聞こえる。
歌詞までは分からない。低い女の声が同じ四小節を何度も繰り返し、その途中で小さな泣き声が混じる。やがて泣き声は細くなり、歌だけが残り、最後に空調と雨の音へ溶けていく。
午前二時、桑原はベッドの上で母からのメッセージを読んでいた。
『元気にしてる?』
それだけだった。
既読はつけた。返事は書けなかった。元気、と送れば嘘になる。元気じゃない、と送れば電話がかかってくる。今は話す力も、心配される力も残っていなかった。
天井灯を消しても眠れず、枕元の小さなライトを点けた。加湿器のファンが回り、止まり、また回る。雨はベランダの手すりを細かく叩いている。隣室では、今夜も歌が始まった。
同じところで声が少し外れる。
桑原は、その外れ方を知っていた。毎晩きれいに歌えるわけではない。それでも向こうの人は、同じ四小節を繰り返す。泣き声が止まらない夜も、眠ったあとも、おそらく自分を落ち着かせるためにも。
桑原は返信欄へ「元気ではないけど、今日はもう寝る」と打った。
送信ボタンの上で指を止める。正直な文だった。けれど今すぐ母の声を受け止められるとは限らない。文を消さずに下書きのまま画面を閉じた。
桑原は子どものころ、母が洗濯物を畳みながら同じ歌を口ずさんでいたことを思い出した。正しい歌詞は覚えていない。思い出せない部分があるからといって、今すぐ確かめなくてもよかった。隣の歌が二巡目に入った。小さな泣き声はまだ続いている。桑原は掛け布団を胸まで引き上げ、歌に合わせてゆっくり息を吐いた。四小節ぶん吸って、四小節ぶん吐く。
やがて泣き声が途切れた。歌はもう一度だけ続き、壁の向こうで椅子がきしんだ。誰かが眠ったのかもしれない。歌っていた人は、まだ起きているのかもしれない。
桑原はライトを消した。返信は明日でも、明後日でもいい。今夜は答えを出さず、誰にも元気だと言わずに目を閉じる。
壁一枚ぶんの子守歌は、桑原のためではない。それがかえって、静かに借りられる気がした。