声なき祝詞

祭壇の上で、息子の影が獣の形に膨らんでいた。

マウラは黒剣を床へ立て、震える喉から言葉を選んだ。《黙祷》は斬る直前に使い手が口にした一語を食う。食われた言葉は、二度と発音できず、意味も思い出せない。その代わり、その一太刀だけは呪いを断つ。

影から伸びた爪が石床を裂いた。

「雨」

マウラは言って剣を振るう。一本目の爪が落ちた。

天から降る水を何と呼ぶのか、もう分からない。濡れた日の匂いだけが胸に残る。

「痛み」

二本目を斬る。

肩をえぐられても、それを表す言葉が消えた。苦しいのに、何が苦しいのか舌が追いつかない。

影は息子の口を借りて笑った。

「母さん、僕を斬るの?」

「違う」

その一語は残した。帰ったあと、何度でも言うために。

影の胸には七つの結び目がある。六つまでは、石や色や季節の名を代価に断てた。白、冬、窓、眠り、傷、帰る。言葉が消えるたび、世界の輪郭は少しずつ欠けた。祭壇の出口を示したくても、もう『帰る』という考えだけが喉で霧になった。息子を救ったあと、どこへ連れていけばよいのかさえ、身振りで考えるしかない。最後の結び目だけが息子の心臓へ食い込み、刃を拒んだ。

剣が囁く。

大切な言葉ほど、深い呪いを斬れる。

息子の本当の名は、マウラが生まれた夜に贈ったものだった。亡き夫の名から一音を取り、「闇の中でも帰る場所を見失わぬように」と願ってつけた。

影が息子の顔を歪める。

「呼んで、母さん」

マウラは剣を高く上げた。

「エルシド」

名を口にした瞬間、その意味が刃へ吸われた。

一閃。

最後の結び目がほどけ、獣の影は悲鳴とともに縮んだ。息子の身体が祭壇から落ちる。マウラは剣を捨てて抱き止めた。

少年が目を開ける。

「母さん」

彼女は何度もうなずいた。無事だ。生きている。頬の形も、髪の匂いも知っている。

「僕の名前、呼んで」

マウラは口を開いた。

そこにあるはずの一語だけが、世界から切り抜かれていた。

彼女は息子を強く抱きしめる。少年は助かったのに、母の祝福からは、永遠に呼ばれない子になった。