声紋のない母音
柾谷伊織刑事は、音響鑑定室で同じ四秒を十七回聞いた。
――金を、橋の下へ。
十九年前の誘拐事件で使われた脅迫電話だ。槙尾航は声紋一致率九十八パーセントとされ、有罪になった。再審請求に対する意見書へ、柾谷は《鑑定の信用性に問題なし》と書くよう命じられていた。
「もう一度、原音だけを」
久世橋怜技官が古いテープを再生した。雑音の中では《橋》の母音が潰れ、《端》にも聞こえる。
「この帯域では第二フォルマントが欠けます。個人識別に必要な母音の形が残っていない」
「では九十八パーセントは?」
久世橋は答えず、当時の解析ファイルを開いた。比較対象欄に二つの波形がある。脅迫電話と、槙尾の取調べ音声。拡大すると、両方の背景に同じ換気扇の周期音が走っていた。ファイルの隅からは削除済みの注記も復元された。《原音の情報量不足につき個人識別不能》。当時の外部研究者が書いた文で、承認欄には刑事部長の取消印が重ねられていた。比較用音声も、槙尾に同じ文句を二十三回読ませた最後の一回だった。似たのではない。似るまで言わせた、作られた声だった。
「脅迫電話のコピーへ、取調べ音声の一部が重ねられています」
鑑定室長から内線が入った。
『旧方式の誤差だ。再現不能とだけ書け。改ざんという言葉は使うな』
久世橋が声を落とした。
「当時の主任は、今の刑事部長です。これを外へ出せば、私は機器管理違反で切られます。柾谷さんも、再審対応班から外される」
柾谷はヘッドホンを外した。槙尾は獄中で喉頭がんになり、今では比較用の声さえ出せない。組織は、その沈黙を待っていたのかもしれない。
意見書の画面には、用意された結論が点滅していた。
柾谷は全文を削除し、原音と解析ファイルのハッシュ値を書き込んだ。《声紋一致率は算定不能。比較音声混入の疑いあり》。久世橋にも確認署名を求めず、自分一人の名で保存する。
そして、外部鑑定機関と再審係を宛先に選び、原音の複製を送信した。