夕暮れのダンス相手
七十二歳の野々部弥栄は、夫の愼一郎が最近、鏡の前で髪を整えるようになったことに気づいた。
火曜の夕方になると、花柄のシャツを着て出かける。帰宅すると、甘い香水の匂いがする。
「どこへ行ってるの」
「散歩だ」
「革靴で?」
「道にも礼儀がある」
「香水の匂いは?」
「風向きだ」
「ポケットのメモは何。『腰に手を回す。目を見つめる。離さない』」
「健康上の注意だ」
「どこの医者がそんな処方をするの」
愼一郎は新聞を逆さに開いた。
翌火曜、弥栄は夫を尾行した。愼一郎は公民館へ入り、受付の若い女性に笑いかけた。
「今日もお願いします」
「こちらこそ。奥様には秘密ですね」
「ああ。当日まで知られたくない」
「先週よりずっと滑らかでした」
「君の教え方がいい」
「では、もっと密着して」
弥栄は扉を開けた。
「十分、聞いたわ」
夫と女性が同時に振り向く。床にはワルツの足形が貼られていた。
「弥栄、なぜ」
「散歩の風向きを見に来たの」
女性が慌てて頭を下げた。
「誤解です。私はダンス講師で」
「夫は腰に手を回して、目を見つめて、離さないんでしょう」
「ワルツですから」
「毎週、甘い匂いをつけて」
「先生の香水が移るだけだ」
「私には秘密にして」
愼一郎は観念したように、鞄から古い写真を出した。五十年前、結婚式で踊ろうとして二人とも転び、笑っている写真だった。
「金婚式で、あの日の続きを踊りたかった。今度こそ転ばずに」
弥栄は写真を見てから、夫の差し出した手を取った。
「相手が若すぎると思ったのよ」
「嫉妬したか」
「転ぶ相手は私だけで十分」
講師が音楽を流した。愼一郎は一歩目で弥栄の足を踏んだ。
「浮気より先に、基礎が怪しいわね」
講師が「次は奥様も一緒に」と勧めると、弥栄は首を横に振った。
「私は先生に教わらない」
「どうして」
「夫婦げんかの呼吸なら、五十年分そろってるもの」
「ワルツは三拍子です」
「うちは四拍子よ。私が三つ言って、この人が一つ謝る」
金婚式当日、二人は最後まで踊れなかった。
笑いすぎて、途中で座り込んだからだ。