夜の廊下は静かに
「夜の廊下は、静かに歩いてください」
侍女トゥーラは、消灯後に会う者へ必ずそう注意した。
抱えているのは替えのシーツ。腰にあるのは鍵束。騎士団長バルガスにとって、彼女は夜番より規則にうるさいだけの小柄な侍女だった。
だから、その夜も彼は苦笑して道を譲った。
王子の寝室へ続く回廊。その天井から、黒衣の侵入者が一人落ちてくるまでは。
男は無音靴を履き、湾曲した刃を逆手に持っていた。王国で三人しか使えない影渡りの術。警報結界さえ抜けた本物の刺客だ。
バルガスが剣へ手を掛ける。
抜くより先に、トゥーラのシーツが床へ落ちた。
ふわり、と白い布が広がり、二人の姿を一瞬だけ隠す。
次に布が沈んだ時、回廊に立っていたのはトゥーラだけだった。
侵入者は消えていた。
剣戟も悲鳴もない。床には血どころか足跡一つ残っていない。
ただ騎士団長の目だけは、風でめくれた壁鏡の覆いを通して、白布の内側を見てしまった。
トゥーラは鍵束から一本を抜き、刃を受け止めた。鍵は折れない。空いた手の指先が男の喉、心臓、眉間を同時に撫でたように見えた。男の全身から力が抜ける。彼女は倒れる身体をシーツで巻き、細長い包みに変え、そのまま壁の物入れへ滑り込ませた。
たった一呼吸だった。
あれは、暗殺王《三点鐘》の絶技。
三か所へ同時に死を置き、相手にどこで倒れたかさえ悟らせない。バルガスは訓練書でしか知らない技だった。
トゥーラは物入れの鍵を掛け、折れたはずの鍵を指で撫でる。金属は元通りになり、鍵束へ戻った。床の埃を布端で拭い、シーツの包みと同じ大きさの空箱を手前へ置く。朝には廃品業者が中身ごと運ぶだろう。
「今のは誰だ」
ようやく絞り出した声に、彼女は人差し指を唇へ当てた。
「皆さまがお休みです」
「お前は、三点鐘なのか」
返事はなかった。
トゥーラは新しいシーツを腕に抱え直し、何事もなかったように王子の寝室へ向かう。すれ違いざま、彼女の鍵束が一度だけ鳴った。それは警告の鐘にも聞こえた。
そして最初と同じ、平凡な注意を騎士団長へ残した。
「夜の廊下は、静かに歩いてください」