夜窓の月喰らい
「窓は閉めておいてください」
夜間学院で天文学を教えるエシュナ・ルークは、授業の終わりに必ずそう言った。彼女は夜妖精の血を引き、昼は眠そうで、夜も眠そうだった。星図を丸め、望遠鏡のレンズを拭き、欠けた窓留めを針金で直す。英雄らしいところなど一つもない。
ただ一人、天文部のフェイだけが、教師が星を数えるとき決して指を使わないことを不思議に思っていた。
新月の夜、フェイが屋上観測室に残っていると、開いた天窓から巨大な口が降りてきた。空を泳ぐ月喰らいだ。都市一つ分の光を飲み、闇に紛れて人の記憶まで食う古代魔獣。
黒い舌が観測室を舐めようとした瞬間、エシュナはカーテンの紐を引いた。
薄布が窓を横切る。
それだけで、空の怪物の首が見えない刃に断たれた。悲鳴は真空の向こうへ置き去りにされ、巨体は星屑となって散る。かつて「夜を斬った勇者」と呼ばれた彼女の奥義を、今の世界は天窓の開閉だと思うだろう。
フェイは望遠鏡越しにすべて見ていた。レンズの中で、教師の影だけが一瞬、翼を持つ剣士の形になる。
フェイは星図へ視線を戻した。もし真実を公表すれば、王宮も騎士団もエシュナを放っておかないだろう。けれど彼女が守ったのは称賛される夜ではなく、誰も邪魔せず星を観測できる普通の夜だ。フェイは記録欄に「全星確認」とだけ書いた。月喰らいの名も勇者の名もない三文字へ、エシュナは後で小さな丸をつけるだろう。それが二人だけの勲章でよかった。
エシュナは床に落ちた黒い雫を吸い取り紙で拭き、星屑を望遠鏡の清掃箱へ集めた。破れた雲には指先で夜色を塗り、空を元どおりにする。それから眠そうな顔で星図を巻いた。
「先生は、あの伝説の――」
「観測記録に推測は書かないこと」
彼女はフェイのノートから震えた一行を消し、代わりに今日の星座名を書いた。窓の外では、食われるはずだった星々が澄んでいる。
最後にエシュナは天窓の掛け金を確かめた。
「窓は閉めておいてください」