夜行列車の忘れ物

「お忘れ物は、ありませんか」

王立夜行列車の清掃婦イネスは、客が降りるたび、深く頭を下げてそう尋ねた。

返事はたいていない。貴族は彼女を見ず、商人は荷物の数だけを数える。イネスは空いた個室の灰皿を替え、窓の指跡を拭き、シーツの皺を指先で伸ばした。

その夜、特別車両にはリリア公女だけが残っていた。護衛は食堂車へ呼び出され、列車は山腹の長い隧道へ入ろうとしている。

「眠れませんの」

「では、枕を一枚増やしましょう」

イネスが戸棚を開けた瞬間、荷物棚から黒い人影が落ちた。

影は床に着く前に短剣を抜いていた。公女暗殺を生業とする《夜縫い》。車輪の音に合わせて人を殺し、次の駅までに姿を消すと恐れられる男だ。

リリアが息を呑む。窓の外も室内も、隧道の闇に沈んだ。

金属音は一度だけした。

暗闇の中で、イネスは清掃車の真鍮棒を引き抜いていた。棒の中から現れた細身の剣が、灯りのない車内に銀の輪を描く。列車が隧道を抜けたとき、夜縫いは立ったまま動かず、短剣だけが粉のように崩れた。

一拍遅れて、男の外套が縦に裂ける。中から落ちた暗器は、すべて刃を失っていた。喉元には赤い点が一つ。致命の場所へ触れながら、血を一滴しか出さない《銀環刺し》。二十年前に失踪した女剣聖だけの技だった。

イネスは男を使用済みシーツで包み、寝台下の荷物箱へ収めた。赤い一滴には塩を置き、布で押さえ、香油を薄く塗る。毒の匂いも足跡も、次の駅まで残さない。

リリアは震えながら、彼女の右手首を見た。袖の内側に、剣聖叙任者だけが持つ銀の輪形の傷がある。

「あなたを、宮廷へ推挙できます。望むなら爵位も――」

「枕は一枚でよろしいですか」

イネスは答えを待たず、乱れたカーテンを整えた。車輪は規則正しく夜を刻み、個室は再び、眠るためだけの場所へ戻る。

次の駅で箱を降ろせば、無名の通報を受けた鉄道警備隊が回収する手筈になっている。イネスはそれすら、洗濯物の受け渡し票に紛れ込ませた。

最後に、暗殺者が落とした黒い徽章をつまみ上げ、彼女は最初と同じ静かな声で尋ねた。

「お忘れ物は、ありませんか」