奪われた声の旋律
歌劇夜会の主役が、最初の一音を失った。
歌姫は喉を押さえ、声の出ない口でカンデラを指す。客席から悲鳴が上がった。
「君は自分の曲を歌わせてもらえなかった腹いせに、彼女の声を呪ったのだな」
婚約者ヒューベルトは舞台へ上がり、宣言した。
「カンデラ・モルティエ。芸術を汚す女との婚約を破棄する」
今夜の歌劇を書いたのはカンデラだった。けれど婚約者は、王子妃が舞台裏に立つのはみっともないと言い、彼女の名を演目から外した。主役を憎む理由がある、と客たちが考えるところまで計算していたのだろう。奪われた名に続いて、今度は良心まで奪われかけたが、彼女の耳だけは音の嘘を聞き逃さなかった。
カンデラは楽譜を胸に抱いたまま、泣く代わりに指揮台へ向かった。客席には彼女の曲で救われたと言った人々もいるが、今は誰も立たない。ならば自分の音で立つしかない。
「楽長パヴェル。音紋譜を一枚ください」
パヴェルは白紙の五線譜を置き、彼女へ指揮棒を渡した。音紋譜は、直前に使われた声奪いの術を旋律へ変える。術者の魔力は、同じ者にしか奏でられない固有の和音となる。
カンデラが一拍振ると、誰も触れていない楽器が鳴った。低い三音、高い一音、最後に歪んだ半音。
それはヒューベルトが求婚の夜、彼女だけに弾いた四音だった。舞台上には、彼の紋章と同じ朱色の音符が浮かぶ。
「違う。あれは私の曲ではない」
「音紋は曲を記録しません。術者の魔力を記録します」
彼が歌姫の失敗を演出し、カンデラを犯人にして二人とも切り捨てようとした理由など、もう聞く必要はなかった。ヒューベルトは観客の視線に耐えきれず、婚約破棄を撤回すると叫ぶ。
「わたくしの人生は、失敗した公演の差し替えではありません」
カンデラは婚約指輪を指揮台へ置いた。
「破棄を受諾します。今夜の終曲は、わたくしが選びます」
元婚約者に背を向けると、パヴェルが新劇場の共同監督として、と手を差し出した。彼女は次の一拍を始めるように、その手を取った。