小さすぎる作詞者名
砺波史帆は、人の言葉ならいくらでも書けた。
上司の謝罪文、同僚の送別スピーチ、恋人の転職理由。頼まれるたびに、相手らしい言い回しを選び、自分の癖を消す。送信後に「助かった」と届けば満足し、誰の文章か尋ねられないことにも慣れていた。文章講座の願書だけは、三年も白紙だった。
「針雨」の棚で見つけたレコードは、派手な男性歌手の顔を大きく印刷した歌謡曲全集だった。懐かしい歌に興味はない。ただ、ジャケット裏の一か所だけ、値札が妙に低い位置へ貼られていた。
史帆が盤をレジへ持っていくと、店主は値札を剥がすため、専用の液を綿棒につけた。紙を傷めないよう、端から少しずつ浮かせる。剥がれた下に、虫眼鏡が必要なほど小さな文字が現れた。
〈全作詞 野辺朝子〉
歌手名の十分の一ほどしかない。だが、針を落とせば、歌手が口にする一語一語はその人の仕事だった。
店主は新しい値札を作り、今度は空いている右上へ貼った。作詞者名を塞がない場所だった。試聴はせず、盤面の番号とジャケットの番号を照合し、透明袋へ入れる。レシートの商品名には、歌手名のあとに括弧で作詞者名まで打ち込んだ。
史帆のスマートフォンには、恋人から原稿が届いていた。
《志望動機、今日中に整えてくれない?》
その下に、文章講座の応募締切を知らせる通知が埋もれている。
史帆は恋人のファイルを開き、「今回は自分で書いて」と一行だけ返した。冷たく見えない表現を十種類考えかけて、やめる。一行は一行のまま送った。
次に、白紙の願書を開く。
〈これまでに書いたもの〉という欄へ、他人の名前で世に出た文章を書くことはできない。史帆は少し考え、こう入力した。
〈これから、自分の名前で書きます〉
実績欄には不似合いな未来形だった。けれど、借り物の実績を並べるより、今の史帆には正確だった。
店主が包んだレコードは、裏面を表にして渡された。透明袋越しに、小さすぎる作詞者名が見える。
史帆はその文字を親指で隠さないように持ち、願書の保存名を「砺波史帆_応募」に変えた。