川風と焼き芋の皮
小机凌介は、毎朝、川沿いを走る。
同じ時刻に会う人とは会釈をするが、名前は知らない。犬を連れた人、太極拳をする人、橋の下で釣りをする人。町の景色の一部だと思っていた。
その朝、犬を連れていない女性が、河川敷を何度も往復していた。
「さざれが、リードを抜けて」
写真には、灰色の毛が混じった中型犬。花火のような工事音に驚き、土手を駆け下りたという。
凌介はランニングをやめ、一緒に捜すことにした。
太極拳の人たちは橋の上から見張り、釣り人は川下へ連絡した。散歩中の保育園児は、先生と一緒に「さざれー」と呼んだ。
名前も知らなかった人たちが、犬の特徴を何度も確かめ合う。
「水は苦手」
「焼き芋の匂いが好き」
「疲れると右足を少し上げる」
昼近く、移動販売の焼き芋屋が土手へ来た。
事情を聞くと、店主は小さな芋を一つ割り、皮を紙袋へ入れた。
「風上から匂わせて歩いてみよう」
凌介たちは、湯気の立つ皮を持って遊歩道を戻った。甘い香りが冷たい川風へ混じる。
葦の茂みの奥で、枝が揺れた。
さざれは泥を鼻につけ、うずくまっていた。足に怪我はなく、ただ人の声と工事音に怯えている。
飼い主が近づいても動かなかったので、焼き芋屋が少し離れた場所へ皮を置いた。
犬は鼻を動かし、一歩、また一歩と出てきた。最後は飼い主の膝へ顔を押しつけ、長い息を吐いた。
見つかったと知ると、河川敷のあちこちから人が集まった。
焼き芋屋は大きな芋を何本か割り、皆へ配った。釣り人は熱くて持てないと言い、子どもたちは黄色い中身を頬につけた。
凌介も紙に包まれた半分を受け取る。指先へ熱が移り、走るだけだった朝が、ゆっくり午後へ変わった。
次の日、凌介が川へ行くと、太極拳の人から「おはよう、昨日はお疲れ」と声をかけられた。釣り人の名前も、焼き芋屋が来る曜日も知った。
さざれは新しいハーネスをつけ、飼い主の隣を歩いていた。
犬が凌介の靴を嗅ぎ、尾を振る。
川風にはまだ土と水の匂いがあった。その奥に、昨日の焼き芋の甘さが残っている気がした。