左手だけの署名
誘拐犯と密告者は、筆跡がまるで違った。
誘拐犯の要求書は震える左下がりの文字で、身代金の場所だけを簡潔に記していた。警察へ届く密告文は、整った右上がりの文字で、犯人の車種や隠れ家を詳しく教えた。密告者は正義感から協力しているらしく、要求書が届くたび、半日遅れて手紙を寄越した。
二つの手紙には不可解な共通点があった。どちらにも下端に薄い珈琲の輪があり、どちらも「駐車場」を「駐車上」と誤記していた。筆跡鑑定は別人と出たが、紙を押す力の間隔だけは同じだった。
密告を追うと、確かに郊外の倉庫から誘拐された会計士の眼鏡と上着が見つかった。しかし本人はいない。犯人は私たちの動きを知り、先回りしているようだった。警察内部に協力者がいるという疑いまで出た。
密告者は警察へだけ親切だった。家族には決して連絡せず、犯人が使った車の色や倉庫の鍵の形まで言い当てる。その一方で、肝心の監禁場所だけは毎回わずかに外した。私たちは倉庫、廃校、採石場と追い回され、そのたび犯人に逃げる時間を与えていた。
会計士の上着のポケットには、密告文と同じ銘柄の黒いインクが一滴付いていた。誘拐犯の道具ではなく、捜査を案内する側の印だった。犯人は私たちに追われるのでなく、走る方向を選ばせていた。
私は次の要求書を机に置き、署名欄の左側へ小さな傷をつけた。そして報道には、密告者だけが知り得る偽の受け渡し場所を流した。
翌日、密告文はその場所を「危険だ」と警告してきた。封筒の切手を剥がすと、裏から昨日つけた傷と同じ繊維の裂け目が現れた。要求書の紙を裏返し、別の文面を書いて送ったのだ。
逮捕した男の机には、左手の指を固定する添え木と、右手用の硬いペン軸が並んでいた。珈琲カップは一つだけだった。
「密告者に助けられましたよ」と私が言うと、男は左手で署名し、右手でそれを打ち消す線を引いた。
二つの筆跡が示していたのは、二人の書き手ではない。一人が自分を追わせるために使い分けた、左右の手だった。