帳簿の余白

 質店の買取窓口が閉まるまで、あと十八分だった。

 白石蕗乃は、婚約指輪の箱を机に置いた。向かいに座る榊温人は、三年前より痩せて見えた。

「売るの?」

「査定だけ」

「俺が買い戻す」

「ちゃんと返せるの?」

 その言葉に、温人の肩がわずかに固くなる。

 指輪は、温人が初めて賞与をもらった冬に選んだものだった。別れたあとも蕗乃は売れず、かといって着けられず、箱の蝶番だけが何度も開閉されて緩くなった。

 二人が別れたのは、彼が借金を隠していたからだ。結婚式場を見学し、家賃を計算し、二人の口座まで作ったあとで、蕗乃は督促状を見つけた。学生時代の奨学金でも、家族の医療費でもない。起業に失敗した友人の保証人になった借金だった。

 温人は、結婚までにちゃんと片づけるつもりだったと言った。

 蕗乃が傷ついたのは金額ではない。未来の計算から、自分だけを外されたことだった。

「完済した」

 温人が一冊の帳簿を差し出した。支払日、残高、生活費。最後の頁にはゼロが並んでいる。

「だから何」

「報告したかった」

「ちゃんとした人になったって?」

「違う。ちゃんと話せなかった人だったって、認めに来た」

 店員が、査定には十分ほどかかると告げた。逃げれば閉店に間に合わない。蕗乃は指輪の箱を開けたまま、帳簿をめくった。

 数字は整っていた。けれど蕗乃が確かめたいのは、返済能力ではない。来月苦しくなることを、来月になる前に話せる人かどうかだった。

 余白には、温人が使わなかった言葉まで見える気がした。怖い。嫌われたくない。頼れない。

「まだ好きだと言ったら、借金まで許したことになる気がしてた」

 蕗乃は視線を落としたまま言った。

「ならない」

「あなたが決めないで」

「ごめん」

「それも、ちゃんと言えば済むと思わないで」

 査定番号が呼ばれた。

 店員が金額を示す。蕗乃は少し考え、買取同意書を裏返した。

「ちゃんと、って便利だね」

「もう使わない」

「使って。今度は結果じゃなく、途中で」

 蕗乃は指輪を売らず、箱ごと鞄へしまった。代わりに帳簿の最後の頁を開き、来週の日付と自分の名前を書き足した。温人のスマートフォンにも同じ予定を入力させてから、閉まりかけた窓口を二人で離れた。