廊下の自動販売機

消灯後の廊下で、栃久保は温かいココアのボタンを押せずにいた。

小銭は入っている。赤いランプも点いている。ただ、隣に同じクラスの女子が立っていて、その向こうから見回りの懐中電灯が近づいてきていた。

昼間は同じ班だったのに、二人きりで話せたのは信号待ちの十秒だけだった。栃久保はその十秒で何も言えず、消灯前、男子部屋の全員に背中を押されて廊下へ出た。彼女も同じように押し出されたのかは分からない。

二人とも、部屋を抜け出した理由は「喉が渇いたから」に決めた。

「温かいのに?」

彼女が小声で言う。

「喉にも心にもいい」

「心、悪いの?」

答える前に、先生が角を曲がった。光が二人の顔を順番に照らす。

「何をしている」

「水を買いに」

声が重なった。自動販売機には水の売り切れ表示が赤く灯っていた。

先生は腕を組み、栃久保の投入した百五十円を見た。それから無言で、自分の硬貨を隣の機械へ入れる。落ちてきた缶コーヒーを取り出し、背を向けた。

「一分後に部屋へ戻るように。見回りは向こう側から続ける」

懐中電灯の光が遠ざかる。

残された一分は、授業の一分よりずっと短かった。栃久保は言おうと決めていたことを全部忘れた。班別行動で隣を歩けて嬉しかったこと。制服ではない緑のセーターが似合っていたこと。帰ったら席替えがあるから、今のうちに話したかったこと。

自動販売機が低く唸る。

「どれが好き?」

結局、口から出たのはそれだけだった。

彼女は商品を眺め、ココアを指した。

「半分なら」

缶が落ちる音が、夜の廊下に大きく響いた。栃久保が熱い缶を渡すと、彼女は両手で包み、一口飲んだ。次に栃久保が飲む。間接なんとか、という言葉が頭に浮かんだが、言えばすべて壊れそうで黙った。

廊下の奥で、先生がわざとらしく咳をした。

彼女は缶を栃久保へ返し、走り出す前に言った。

「明日の自由行動も、半分ずつにしない?」

一分はとっくに過ぎていた。

それでも先生は、二人が別々の階段へ消えるまで、こちらを振り向かなかった。