影にも家賃がかかります
米倉千鶴の影は、会社から帰ってこなくなった。
本人が夜十一時に玄関を開けても、床に映るのは鞄とパンプスの輪郭だけ。影は午前二時ごろ遅れて帰宅し、勝手にノートパソコンを開いて朝まで働く。おかげで千鶴は眠っても疲れが取れなかった。
〈灰谷不動産〉の灰谷廉は、汚れ一つない白いスーツを着ている。相談を聞きながら、黒い家賃台帳へ二本の線を引いた。
「二重払いは、お勧めしません」
「家賃は一部屋分です」
「あなたは、会社と自宅の両方へ時間を払っています」
廉は夜の部屋を調べた。零時を過ぎると、玄関下の隙間から黒い影が滑り込み、千鶴の指を使うようにキーボードを叩き始める。
「追い払えますか」
「先に契約関係を確認します」
廉は会社の就業規則ではなく、ダイニングテーブルを指した。中央には社用パソコン、端には食べかけのパン。椅子の背には社員証が掛かっている。
千鶴は来月の昇格審査を控えていた。先輩から引き継いだ業務も、後輩の確認も、自分がやれば早い。家で少し整えているだけだと言うと、廉は台帳にもう一本、太い線を加えた。
「影は、本人が断らなかった仕事を断れません」
「でも、今やめたら評価が」
「辞めろとは言っていません。無料で貸している部屋を、会社から取り戻せと言っています」
廉は鞄から、小さな黒い玄関マットを出した。白字で『本日閉店』とある。それを仕事机の代わりになっていたテーブルの下へ敷き、社用パソコンを玄関外へ置く。
「今夜だけ、ここから先は住居です」
午前二時、影が帰った。パソコンを探して部屋を一周し、黒いマットの前で立ち止まる。やがて千鶴の足元へ重なり、久しぶりに一つになった。
千鶴は翌朝、上司へ業務一覧を送り、優先順位と分担を相談したいと書いた。送信ボタンを押すまで、廉は台帳を閉じて待っていた。
「これで直りますか」
「毎日、閉店してください。影は習慣に忠実です」
会計のとき、千鶴は黒い台帳に自分の部屋番号が二度書かれているのを見つけた。一つには『本人』、もう一つには『影』。廉は二枚目の家賃票を破り、白いスーツのポケットへしまう。
「二重払いは、お勧めしません」
「家賃の話じゃなかったんですね」
廉は玄関マットを千鶴へ渡した。
「時間も、人生も、同じ部屋へ二度払えるほど安くありません」