拝啓_雨の日の小学生へ

拝啓、雨の日の小学生へ

あなたの名前を、私は知りません。

十五年前の六月、私は駅裏の公園で雨宿りをしていました。会社を辞めたばかりで、故郷へ戻る切符を握っていました。

仕事が続かなかったことを家族に言えず、帰る勇気もなく、ベンチに座ったまま雨に濡れていました。

そこへ、黄色い長靴のあなたが来ました。

お父さんらしい人と一本の傘に入り、自分の小さな傘を私へ差し出しました。

「どうぞ」

私は断りました。

「知らない人に貸したら、返ってこないよ」

あなたは少し考え、こう言いました。

「じゃあ、返さなくていいです。風邪をひいたら、明日も困るから」

青地に白い雲が浮かぶ子ども用の傘でした。持ち手には、油性ペンで名字が書かれていましたが、雨と年月で読めなくなりました。

私はその傘で駅へ行きました。

けれど故郷行きの電車には乗らず、近くの職業相談所へ向かいました。親切にされたから立派になろうと思ったのではありません。ただ、見知らぬ子どもが私に「明日」を前提にしてくれたので、その明日を一日だけ試してみようと思ったのです。

その一日が十五年続きました。

今、私は児童館で働いています。入口には貸出用の傘が十二本あります。忘れた子にも、迎えを待つ保護者にも、雨の中で立ち尽くす人にも貸します。

返ってこない傘もあります。

そのたび、あなたの言葉を思い出します。

返らなくていい。

次の明日へ行けたなら、それでいい。

先週、一人の小学生が傘を借りました。翌日、母親と一緒に返しに来て、何度も謝りました。私は笑って言いました。

「返ってこなくてもよかったんですよ」

するとその子は不思議そうに尋ねました。

「じゃあ、どうして名前を書くの?」

答えに迷い、ようやく分かりました。

名前は返してもらうためではない。

雨の日に、自分を気にかけた誰かがいたと覚えてもらうためです。

あなたがどこにいるか分かりません。

それでも今日、児童館の貸出傘すべてに、小さく書きました。

〈風邪をひいたら、明日も困るから〉

拝啓、雨の日の小学生へ。

あなたの傘は、まだ返せていません。

代わりに今も、十二本に増えて、誰かの明日へ向かっています。