拾った人の名前
椹木弥晴は、商店街の植木鉢の陰で黒い財布を拾った。
中には五万円近い現金があった。
弥晴はその場で立ち止まった。三年前、窃盗で捕まったことがある。刑を終え、今は解体現場で働いているが、給料日前の財布は空だった。見ている人はいない。現金だけ抜き、財布を交番前へ置くこともできた。
革の内側に、子どもの写真が挟まっていた。
裏には、色鉛筆で書かれている。
〈おじいちゃんへ。まいごになったら、このしゃしんをみて、うちにかえってね〉
弥晴は財布を閉じた。
交番で中身を確認した巡査は、弥晴の顔と記録を覚えていた。ほんの一瞬、疑う目をした。
「拾得者のお名前を」
弥晴はペンを持ったまま動けなかった。自分の名前は、これまで始末書や調書に書くものだった。
それでも、ゆっくり記入した。
一時間後、持ち主の猪苗代詠一が駆け込んできた。現金には目もくれず、孫の写真を確かめて泣いた。
詠一は弥晴へ礼を言い、謝礼を差し出した。
「受け取れません」
「どうして」
弥晴は答えられなかった。受け取れば、善いことを金に替えたような気がした。受け取らなければ、立派な人のふりをするようで苦しかった。
詠一は無理に渡さず、代わりに尋ねた。
「あなたの名前を、覚えてもいいですか」
数日後、交番を通じて一通の手紙が届いた。
〈弥晴さんへ。
孫に、財布を拾ってくれた人の話をしました。
あなたの名前を、悪いことをした人として知る者もいるかもしれません。
でも私と孫は、困っている誰かの財布を届けた人として覚えます。
人の名前は、最後に書かれた出来事だけのものではないと思います〉
弥晴は手紙を作業着の胸へ入れた。休憩時間になると何度も読み、折り目が白くなってから、透明な袋へ入れ直した。
その夜、別れた娘へ三年ぶりに便箋を書いた。許してほしいとは書かなかった。ただ、今の仕事と、拾った財布を交番へ届けたことを書いた。
最後に、自分の名前を書いた。
以前より少しだけ、まっすぐな字だった。
小さな親切は、失くした財布を持ち主へ返す。
ときには、汚れたと思い込んでいた名前まで、本人へ返してくれる。