持ち手の歯形
長谷部瑠衣の玄関には、三か月前から赤い傘が立っていた。夕立の日、向かいの部屋の女性が貸してくれたものだ。返そうと思うたび雨が降らず、そのままになっていた。
トトの検査結果を聞いた帰り、瑠衣はその傘を見て、今夜返そうと決めた。明日の朝には鎮静の処置を受ける。歩けるうちに外へ出られるのは、これが最後だった。
向かいの部屋へ渡すだけなら散歩とは呼べない。瑠衣は傘を持ち、トトと一緒に建物を一周してから戻ることにした。
十七歳のトイプードルは、歩道の継ぎ目ごとに立ち止まった。赤い傘の先が地面へ触れるたび、こつ、こつ、と音がする。トトはその音を追うように進んだ。
裏手の駐車場では、いつも吠える黒猫がボンネットにいた。今夜はトトを見ても逃げない。トトも吠えず、鼻を上げただけだった。瑠衣は傘を握り直し、何か言いそうになってやめた。
建物の正面へ戻ると、自動ドアのガラスに一人と一匹が映った。瑠衣は二十八歳で、トトは十七歳。並んだ数字に意味をつけるのは簡単だったが、今は傘を返すだけでいい。
向かいの部屋のチャイムを押す。女性は部屋着のまま出てきて、赤い傘を見ると笑った。
「忘れてた」
瑠衣も「私も」とだけ答えた。
女性はトトの前にしゃがみ、手の甲を差し出した。トトは一度嗅ぎ、すぐ瑠衣の靴へ体を寄せた。事情を説明する必要はなかった。女性は傘を受け取り、玄関の内側の傘立てへ差した。
赤い柄が、透明なビニール傘の間に収まる。瑠衣は空いた右手でリードを持ち直した。
女性は傘の持ち手に巻かれた古いテープを指でなぞった。貸した日の翌朝、トトが噛んで歯形をつけた場所だった。瑠衣が謝ろうとすると、女性は「滑らなくていいの」とだけ言い、歯形を内側へ向けて傘立てへ入れた。
トトは開いた扉の向こうへ前脚を出しかけたが、瑠衣が名前を呼ぶと戻った。廊下の照明が消え、女性が手を振る動きだけが室内の明かりに浮いた。
扉が閉まる直前、傘の先から落ちた最後の水滴が、たたきの黒い点へ重なった。