日の出まで返品可
水城菖蒲は、失恋の記憶を消してもらった。
願いの店でもらったレシートには、《返品は日の出まで》と印刷されていた。
「返品する人なんているんですか」
菖蒲が尋ねると、店員は「よく」と答えた。
店を出た瞬間、胸が軽くなった。
七年付き合った男の名前が思い出せない。別れを告げられた駅も、泣きながら歩いた川沿いも、白い霧をかけたように遠い。携帯の写真には見知らぬ男が何百枚も写っていたので、まとめて削除した。
部屋へ帰り、コーヒーを淹れた。
一口飲んで、まずいと思った。
豆はいつものものだ。だが、なぜ深煎りを好きになったのか分からない。棚の青いマグカップも、玄関の黄色い傘も、窓辺の小さなサボテンも、選んだ理由が抜け落ちていた。
冷蔵庫には、食べられないはずのパクチーが入っていた。試しにかじると、やはり嫌いだった。なのに、嫌いになったきっかけだけがない。
鏡を見る。
髪が短い。長かったはずなのに、いつ切ったのか思い出せない。
記憶から男だけが消えたのではなかった。男と笑った自分、喧嘩して意地を張った自分、仲直りのために料理を覚えた自分まで、ところどころ切り取られている。台所の包丁を握る手だけが玉ねぎの切り方を覚えていて、その理由を頭が知らなかった。
菖蒲はレシートを握り、外へ飛び出した。
東の空が薄くなっていた。
店は路地の奥にまだあった。戸を叩くと、同じ店員が眠そうに顔を出した。
「返品を」
「つらさも戻ります」
「はい」
「忘れたかった言葉も」
「はい」
レシートを渡した瞬間、胸の奥へ冷たい塊が落ちた。
男の名前。最後の「もう無理だ」。改札の向こうで一度だけ振り返った横顔。全部が戻り、菖蒲はその場にしゃがみ込んだ。
同時に、青いマグを二人で奪い合った朝、黄色い傘の下で肩を濡らした日、サボテンに変な名前をつけた夜も戻った。
店員が戸を閉める。
日の出だった。
部屋へ帰った菖蒲は、削除した写真が戻らないことに気づいた。少し泣いたあと、深煎りのコーヒーを淹れた。
苦い。けれど、これは自分で好きになった味だった。