昆布は底で待つ
久宝千聡は、午前一時十分まで共同オフィスに残っていた。
ノートパソコンには、翻訳会社から届いた契約終了のメールが開いている。三週間前の日付だった。けれど同居する恋人には、今も大型案件を進めていることになっている。
毎朝同じ時刻に家を出て、共有机で求人を探し、夜になると「今日も遅い」と送った。収入が途切れたと話せば、恋人は家賃を多く払うと言うだろう。それが怖かった。
契約終了は千聡の能力が理由ではなく、発注元の予算凍結だった。それでも、説明すれば言い訳に聞こえると思った。恋人が無職だった時期、千聡は生活費を負担する一方で、心のどこかに支える側の優位を持っていた。その同じ椅子へ自分が座ることを、情けなさではなく敗北だと感じていた。半年前、恋人が転職で無職だったとき、千聡は何度も「気にしないで」と言った。その言葉を自分だけ受け取るのは、負けることのように思えた。
受付の冷蔵庫に、名前を書いた包みがあった。恋人が帰宅途中に置いていった昆布のおにぎりだ。付箋には〈遅いなら食べて〉。問いただす言葉はない。
千聡は窓際の席で包みを開いた。醤油の香りがわずかに立ち、冷えた米の底に、昆布の歯応えがまとまっていた。
恋人のおにぎりは、具がいつも下へ寄る。千聡は最後のひと口を残す癖があり、昆布だけが包みの中へ残ったことも何度もあった。恋人はそのたび笑って、具の位置が下手だと謝った。
今夜も、上半分は白い米ばかりだった。千聡はゆっくり食べ、底へ近づいた。最後の角には昆布が詰まっている。残せば、まだ仕事をしているふりを続けられる気がした。
千聡はその角まで口へ入れた。甘辛い昆布を噛み終えると、包みは本当に空になった。
帰宅して、共有の家計簿をテーブルへ出す。今月の収入欄をゼロに直し、その上へ空の包みを置いた。契約終了のメールを印刷した紙も隣へ並べる。
寝室の扉の向こうで、恋人が寝返りを打った。千聡は呼び起こさず、明朝二人で見るページを開いたまま、向かいの椅子を引いた。