時の河口で舟を降りる
時渡りの舟は、六百年離れた二つの河口を年に一度だけ結んだ。
ナシェルは西暦一六四〇年の地図師。
ドロアは西暦二二四〇年の水害史研究者。
二人が初めて出会ったとき、ナシェルの町はまだ海から遠く、ドロアの時代では海底に沈んでいた。
舟が時の中間へ入る十二分間だけ、二人は同じ年齢になった。
ドロアは未来の海岸線を伝え、ナシェルは高台へ逃げる道を地図に描いた。
その地図は大洪水の日に千人を救い、六百年後、ドロアが時渡りの舟を見つける手掛かりになった。
会うたび、二人は互いの時代を話した。
ナシェルはまだ存在しない橋の名を覚え、ドロアは失われた市場の歌を覚えた。
五度目の航行で、舟守が告げた。
「次が最後だ。時の流れが閉じる」
二人には選択肢があった。
ナシェルが未来へ渡るか、ドロアが過去へ渡るか。
ただし、どちらかが自分の時代を離れれば歴史は組み替わる。
ナシェルが未来へ行けば、避難地図は描かれず、ドロアの町も研究所も生まれない。
ドロアが過去へ残れば、六百年後に地図を発見する者がいなくなり、舟は最初から出航しない。
「一緒にはなれないようにできていたんだね」
ドロアが言った。
「違う。出会うために、別れなければならないようにできていた」
最後の舟で、ナシェルは新しい地図を渡した。
陸も海も描かれていない。中央に一本の川と、二人が会った地点だけが記されていた。
ドロアは未来の薄い金属板を渡した。
そこには市場の歌を、彼女の声で録音してある。
「六百年も壊れない?」
「あなたが聴き終えるまでは」
「君のほうが先に生まれるのに、先に別れるんだな」
「時間は、そういう順番を気にしないみたい」
舟が二つの時代へ分かれる。
手をつないでいられる最後の一秒に、ナシェルは言った。
「僕の地図の先には、いつも君がいた」
「私の過去には、ずっとあなたがいる」
手が離れた。
一六四〇年、ナシェルは高台への道を描き続けた。
二二四〇年、ドロアは海底から彼の地図を引き上げた。
時渡りの舟は二度と現れなかった。
それでも地図に残った救命路と、未来から届いた古い歌が、二人の時代を互いの存在で満たしていた。
一緒に生きる未来を選べなかったからこそ、二人はそれぞれの過去と未来を消さずに別れられた。