曇天の星図
海外赴任の荷造り中、唐沢伊吹は制服のポケットから折り畳まれた星図を見つけた。青い紙の中央に、白い鉛筆で小さな丸が描かれている。
天文部最後の観測会は、三月の屋上だった。コンクリートは昼の熱を失い、座布団を敷いても冷たさが膝へ上がってきた。紙コップのココアは膜を張り、望遠鏡の脚だけが風に細く鳴っていた。手袋を外して星図を押さえると、紙の冷たさが指紋の間へ入り込んだ。風は制服の襟から背中へ入り、誰かが置いた懐中電灯の光を揺らした。卒業生だけで夜明けまで星を見る予定だったのに、空は雲でふさがれ、望遠鏡の筒には細かな水滴がついた。
皆は早々に教室へ戻った。伊吹だけが屋上に残った。翌月、町を離れるのが怖かった。星さえ見えれば、いつもの方角を確かめられると思っていた。
隣に残った部長が、星図を伊吹の膝へ広げた。雲しかない空と紙を交互に見て、北極星の位置へ指を置く。
「たぶん、あそこ」
「見えてないのに?」
「見えない日は、知ってる方角を使う」
伊吹は納得できず、白い鉛筆でその場所を丸く囲んだ。証拠のない印だった。
午前四時すぎ、風で雲が一瞬だけほどけた。丸をつけた場所より少し右に、弱い光が現れた。二人は望遠鏡を動かす間もなく見失った。
「外れた」
伊吹が言うと、部長は星図を折った。
「でも、上を向けた」
それが天文部で交わした最後の会話だった。
今、赴任先の地図を開けば、知らない文字と路線ばかりで、正しい場所など一つもわからない。現地の言葉は挨拶しか覚えておらず、空港から社宅までの道順も画面の青い線に頼るしかない。送別会では勇敢な決断だと言われたが、伊吹自身には、ただ足場を外したように感じられた。断る理由はいくつも浮かぶ。伊吹は窓の外を見た。東京の昼は明るすぎて、星は一つも見えなかった。
彼女は古い星図を折り直し、パスポートにはさんだ。丸印は、実際の北極星から少しずれている。それでも消さなかった。
出発便の予約画面で「確定」を押す。
見えない空にも、向く方角はつくれる。