更新料と共有ラウンジ
巴絵の机には、鍵が二本並んでいた。
黒い樹脂カバーの鍵は、六年住んだワンルームのもの。真鍮の小さな鍵は、内覧した女性専用コリビングの仮鍵だった。
今の部屋を更新するなら、明日までに更新料を振り込む。コリビングへ移るなら、入居申込書を送る。どちらも金額はほとんど同じだった。選べない理由を金額のせいにはできなかった。
更新案内の封筒には、見慣れた住所が印刷されている。申込書の住所欄は空白だった。巴絵には、その空白が希望にも、居場所を失う穴にも見えた。
一人暮らしは好きだ。誰にも起こされず、食べる時間も風呂の順番も自由。それなのに最近、玄関を開けたときの無音が、以前より広く感じられた。三十歳を前にして、自由がそのまま孤立へ続く坂道に見える夜がある。
コリビングには八人が住み、台所とラウンジを共有する。内覧では笑い声が聞こえた。けれど、共有の冷蔵庫、当番表、廊下で交わす挨拶を想像すると息が詰まる。寂しさを恐れて引っ越し、今度は一人になれないことを後悔するかもしれない。
申込書の末尾には、〈最低入居期間六か月〉とあった。
巴絵は二本の鍵を握った。黒い鍵には、慣れた静けさがある。真鍮の鍵には、まだ名前のない騒がしさがある。どちらの未来にも欠点があり、どちらを選んでも「やっぱり」と言われそうだった。
夜十一時、管理会社へ電話をかけた。
「六か月で退去しても、失敗扱いにはなりませんか」
担当者は少し笑い、「契約上は、ただの退去です」と答えた。
その言葉で、巴絵は申込書に署名した。
永住するつもりはない。孤独を克服する物語にするつもりもない。半年後、黒い鍵の部屋に似た静けさを探し直すかもしれない。それでも、今の自分が試したかった暮らしに六か月を渡す。
翌朝、黒い鍵を返却用の封筒へ入れた。真鍮の鍵はまだ仮鍵で、入居日に本物と交換される。
巴絵は二つの重さを覚えておこうと思った。捨てた未来を軽くせず、選んだ未来だけを美化せず、その差額も不便も自分で払うために。