月面で最初の穴
月面居住区で、土は食料より高価だった。
だから六歳の月守伊織が、地球から届いたウサギ「野ばら」を水耕農園へ逃がしたとき、父は本気で青ざめた。
野ばらは低重力用の重りベストを揺らし、培地の袋を破り、クローバー苗を蹴散らした。月生まれの伊織は、動物が物を壊すところを初めて見た。映像の生き物は決められた場所で跳ね、汚さない。
「生き物って、故障するんだね」
「故障じゃない。勝手なんだ」
父は頭を抱えながら、少し笑った。その笑い声も、伊織には珍しかった。祖母の訃報が届いてから、父は必要な言葉しか話さなくなっていた。
野ばらは、地球にいた祖母のペットだった。祖母は移住を約束していたが、輸送船の出発前に亡くなった。長い検疫と航行を終え、ウサギだけが一年遅れで月へ着いた。
伊織は祖母に一度も会っていない。通信画面の中で、いつも野ばらを抱いていた人。それだけだった。
荒らされた培地を片づけると、輸送箱の底から小さな布袋が出てきた。中には黒い土と、祖母の録音端末が入っていた。
『伊織へ。月では土をこぼすと叱られるでしょう。でも庭は、最初からきれいな場所ではありません。芽が出なかったり、虫が食べたり、ウサギが穴を掘ったりして、やっと誰かの庭になります』
父は何度も再生し、最後には顔を隠した。祖母は父の母でもあったのだと、伊織はそのとき初めて気づいた。
二人は管理官へ謝り、破れた培地の一角を買い取った。祖母の土を混ぜ、残ったクローバーを植えた。野ばらがまた掘らないよう柵を作ったが、翌朝には小さな穴が一つ増えていた。
父はため息をつき、埋めなかった。
数週間後、穴の脇から細い芽が出た。布袋に混じっていた名も分からない種だった。
伊織は野ばらを抱かず、その隣へ寝転んだ。ドームの向こうに、青い地球が浮かんでいる。父も土の上へ腰を下ろし、三人ぶんの影が人工の朝日に伸びた。
「おばあちゃんの庭、できたね」
野ばらは返事をせず、クローバーを一枚食べた。
月で最初の庭は、完璧な農園ではなかった。
一匹が勝手に掘った穴と、二人が泣いて混ぜた土から始まった。