朝刊の上
退職してから、恒彦は朝刊を隅々まで読むようになった。
一面、地域欄、文化欄。切り抜く記事には赤鉛筆で線を引く。ところが猫の「蕪」が、毎朝新聞の上へ座る。
広げた途端に現れ、読もうとしている場所を尻で隠す。
「そこを読みたいんだ」
蕪は耳だけ動かす。
妻の美緒里がいた頃は、新聞を二つに分けて読んだ。妻は文化欄、恒彦は社会面。読み終えると交換した。蕪は二人の間を歩き、紙を踏んで叱られていた。
妻が亡くなったあと、新聞は一人には大きすぎた。
ある朝、恒彦は読むのを諦め、蕪の背へ手を置いた。冬毛が厚く、新聞紙の冷たさとは反対に温かい。インクが毛につかないか心配したが、白い腹に灰色の線が一本ついただけだった。
「お前も文化欄か」
蕪が座っているのは、妻がいつも読んでいた頁だった。
恒彦は紙を半分に折り、残りの社会面を読んだ。蕪の重みで頁が飛ばず、案外読みやすい。
それから朝刊は、最初から二つに分けることにした。一方を蕪へ、もう一方を自分へ。
春の朝、窓から風が入り、紙の端がめくれた。蕪が前脚で押さえる。恒彦は地域欄の記事を声に出して読み、返事の代わりに喉の音を聞いた。
読み終えた新聞を畳むと、蕪のいた場所だけ丸くぬるい。インクと猫の毛、それから妻が淹れていたものより少し薄いコーヒーの匂いが、朝の食卓に残った。
梅雨の朝、新聞が湿気で柔らかくなった。蕪はいつもの文化欄に座り、腹の下で紙を皺にする。恒彦は妻が残した切り抜き箱を開け、古い展覧会の記事を見つけた。余白に〈いつか行く〉と書かれている。展覧会はもう終わっていたが、その画家の本を図書館で借りることにした。蕪へ記事を見せても、鼻を一度つけただけだった。恒彦は声に出して日付を読み、箱へ戻す。湿ったインクから、妻の指と朝のコーヒーが重なるような匂いがした。
昼前、蕪が退くと文化欄には丸い皺ができていた。恒彦は伸ばさず、そのまま畳む。夕方に開けば、猫が座った場所だけインクの匂いが柔らかく感じられた。