朝焼け前の塩パン

パン屋「麦舟」の店主が倒れた夜、桑原征矢は小鳥遊と二人で、仕込み済みの生地を前に立っていた。冷蔵庫には百二十個分。焼かなければ全部捨てる。焼いても売れる保証はない。

「塩パンだけにする」

小鳥遊が言った。成形が早く、材料も少ない。桑原は入って三か月で、まだ生地を均等に切れなかった。

「店、明日開けるんですか」

「焼けたら」

「店主、戻れるか分からないのに」

「だから生地が待ってる間だけやる」

二人は秤を挟んだ。桑原が切り、小鳥遊が丸める。重すぎるものから生地を摘み、軽いものへ足す。最初は七十グラムと九十グラムが並んだ。やがて誤差は五グラム以内になった。

桑原は先月、住み込みの飲食店を辞め、友人の部屋を転々としていた。麦舟の休憩室で夜を明かしたこともある。小鳥遊は気づいていたはずだが、何も言わなかった。その代わり、朝になると余ったコーヒーが二杯あった。

成形した生地へバターを巻き込み、発酵器へ入れた。膨らみの遅い列だけ、小鳥遊が発酵器の上段へ移す。桑原は次の天板を温め、冷えた生地を一つずつ並べ直した。二人で床を掃き、天板を洗った。発酵を待つ十分間、小鳥遊は紙パックの牛乳を二つ出し、片方を作業台の桑原側へ置いた。午前四時、最初の二十個が焼き上がった。半分は巻きが甘く、バターが流れ出していた。

桑原が顔をしかめると、小鳥遊は一番歪んだものを割った。

「中まで焼けてる」

二人で半分ずつ食べた。熱い塩気で、寝不足の舌がようやく目を覚ました。

夜明け前、百二十個は形の違う塩パンになった。店主の治療費も、小麦粉の請求書も消えない。明日の客数さえ分からない。

桑原はエプロンを外し、持ち帰ろうと畳んだ。もう迷惑をかける前に辞めるつもりだった。小鳥遊は壁のフックを一つ空け、そこへ新しい名札を掛けた。名字だけが油性ペンで書かれている。

「六時まで寝て。開店は七時」

休憩室の長椅子には、いつの間にか毛布が敷かれていた。桑原はエプロンを名札の下へ戻した。朝焼けが厨房の床まで差しても、彼は靴を脱いだままだった。