本名のない票
越智周は、票に《奈河原重人》と書いた。
隣の宮地沙羅が息を呑む。向かいに座る大男は、自分を《檜森ガク》と名乗っていたからだ。
《戸籍上の氏名を一字違わず記した票のみ有効。有効票の過半数を受けた者を処刑する》
それが今回の規則だった。
檜森は開始直後から笑っていた。「俺の本名を知るやつはいない。お前らは互いに票を入れるしかない」
彼は二人に別々の偽名を教え、票を割らせるつもりだった。沙羅には《檜森岳》、周には《檜森学》。同じ音でも漢字が違えば無効になる。
首輪の表示名は自己申告で、周は《シュウ》、沙羅は《サラ》、大男は《檜森ガク》。主催者はわざと通称を見せ、戸籍名を隠した。
「奈河原って誰」
沙羅が小声で問う。
周は大男の左手を見た。小指が第一関節からない。耳の後ろには、焼いて消した刺青の端がある。
「六年前、護送車から逃げた奈河原重人。整形したが、指と刺青は変えられなかった。ニュースで何度も見た」
「証拠は?」
「さっき係員が採血したとき、こいつだけ腕輪のバーコードを隠した。偽名が通るなら隠す必要はない」
檜森――奈河原が立ち上がった。「昔の映像だけで漢字まで当てられるか」
周は胸ポケットから薄い紙を出した。入室時、奈河原が苛立って破り捨てた薬剤同意書。その切れ端に《河原重人》だけが残っていた。最初の一字は、報道で知っている。
残り十秒。
沙羅は迷った末、《奈河原重人》と書いた。
奈河原は《越智周》と書き、勝ち誇った。
集計。
奈河原重人、二票。
越智周、零票。
無効票、一票。
「なぜ俺の票が無効だ!」
周は首輪の内側から、小さな戸籍抄本を抜いた。誘拐被害者保護のため、昨年、家庭裁判所で改名している。
「越智周は仕事名だ。戸籍名は柏原廻。あんたは自分だけが偽名で守られていると思った」
処刑灯が奈河原へ向く。彼の顔から、初めて余裕が消えた。
周は沙羅の外れた首輪を拾って渡した。
「名前を隠すゲームで一番危ないのは、相手にも隠す理由があると考えないことだ」