校庭一周ぶんの嘘
「走るの嫌い」
文乃は一年中そう言っていた。体育の持久走は最後尾、朝練は見学、リレーの選手決めでは真っ先に目を伏せた。
だから、体育祭前日の夕方、校庭を走る彼女を見つけたとき、錬士は声をかけずに物陰へ隠れた。
文乃は速かった。誰もいないトラックを、腕を大きく振って駆ける。ゴール代わりのラインを越えると、膝をつき、しばらく立てなかった。錬士は声をかける代わりに、自分の時計を見た。六十六秒。次の一周で文乃は六十五秒になり、三周目でようやく錬士の存在に気づいた。
翌日、女子アンカーが熱を出した。
教室が騒然とする中、錬士が言った。
「文乃、走れるだろ」
全員が笑った。文乃だけ笑わなかった。
「無理」
「昨日、一周六十六秒」
教室が静まった。文乃の耳が赤くなる。
「見てたの」
「最後だけ」
「全部じゃん」
彼女は怒ったまま、アンカーの腕章を受け取った。教室を出る時、誰にも聞こえない声で「転んだら責任取って」と言った。錬士は何を取ればいいか分からず、「保健室まで運ぶ」と答え、さらに怒らせた。
本番、バトンは首位で来た。文乃は逃げるように走った。フォームはきれいで、いつもの猫背も、重そうな足取りもなかった。後ろの選手が迫るたび、クラス全員が彼女の名前を叫んだ。
一位のままゴールした文乃は、喜ぶより先に錬士をにらんだ。
「最低」
「優勝したのに?」
「秘密だったのに」
錬士はペットボトルを差し出した。文乃は受け取らない。
「なんで隠してたんだよ」
「去年、速いって言われて、期待されて、県大会で転んだから」
それだけ言うと、文乃は俯いた。トラックの土に汗が落ちた。
錬士は少し考え、ペットボトルを地面に置いた。
「じゃあ今日は、走るの嫌いな人がたまたま一位になったことにしよう」
文乃が顔を上げる。
「誰にも言わない?」
「昨日の一周のことは」
「今日のことは?」
「自慢する」
彼女はようやく笑い、錬士の肩を思いきり叩いた。
表彰式で、文乃はまた「走るの嫌い」と言った。
でもその声は、校庭一周ぶんだけ、昨日より軽かった。