桜の下の申込書

母から墓の話をされたのは、史帆がコンビニで桜餅を二つ買った夜だった。

「霊園から連絡が来てね。隣の区画、今なら押さえられるって。あなたの分も一緒にしておこうか」

電話の向こうでは、食器を重ねる音がした。史帆は二十九歳で、自分の死後を想像するには若く、何も考えずに任せるには大人すぎた。

母が送ってきたパンフレットは二冊。一冊は家名の刻まれた墓石が並ぶ区画。もう一冊は、一本の桜の下に合同で納骨される樹木葬。後者には「承継者不要」と太字で書かれていた。

家の墓なら、知らない場所に一人で入らずに済む。樹木葬なら、誰かに守り続けてもらう前提を残さずに済む。

「まだ先の話よ」と母は笑った。「決めるだけ決めておけば安心でしょ」

安心という言葉に、史帆は弱かった。今までいくつもの選択を、将来困らないほうへ寄せてきた。けれど、その将来で誰が困るのかは曖昧なままだった。

「隣の区画は取らなくていい」

母の声が固くなった。「私たちと入りたくないの?」

「そうじゃない。私の後始末を、まだいない誰かの役目にしたくない」

母を傷つけたことは、電話を切っても消えなかった。テーブルには二つの桜餅が残り、一つは母に渡すつもりで買ったのだと気づいた。

史帆は樹木葬の申込書を開き、緊急連絡先の欄だけ空けたまま、氏名を書いた。桜が咲く場所を自分で選んだからといって、死が怖くなくなるわけではない。母との距離が正しくなるわけでもない。

それでも、空欄を誰かに埋めてもらう前に、史帆は申込書を封筒へ入れた。選んだ場所の寂しさまで、自分のものにするために。

申込金を振り込んだ翌日、母から隣の空き区画の写真が届いた。説明はなかった。史帆は謝罪文を何度も書き、全部消した。代わりに、春になったら二人で霊園の桜を見に行こう、と送った。既読は夜までつかなかった。テーブルの桜餅は固くなっていたが、史帆は二つとも食べた。母の分まで奪ったようで苦かった。それでも振込取消の窓口は調べなかった。理解されないまま残る選択もあると、初めて認めた。