椀の底の海老

相良瑛介は、ギターを売る店を三軒まで絞っていた。

 五年付き合った恋人から別れを告げられたのは、その日の夕方だった。彼女は「音楽をやめてほしいわけじゃない」と何度も言った。それでも、来月の家賃を心配しながら三十歳を待つことはできない、と泣いた。

 瑛介は売却額を調べ、演奏仲間の連絡先を非表示にした。音楽をやめたと知らせれば、彼女が考え直すかもしれない。そんな期待を、反省の形に見せかけていた。

 ギターは十九歳のとき、夜勤の給料を貯めて買ったものだった。恋人はその音を嫌ったことなどない。小さなライブにも来て、客が三人しかいない夜には一番大きく拍手した。売れば傷つくのは彼女ではなく、自分だけだと分かっていた。

 居酒屋「舟底」は静かで、客は瑛介一人だった。燗酒を一杯頼むと、店主が海老しんじょの椀を出した。蓋を取った瞬間、澄んだ出汁の湯気が頬へ触れ、柚子の皮が明るく香る。箸を入れると、白いしんじょはふわりと割れ、中から海老の弾力が返ってきた。

「崩れやすいですね」

「一度に持つからだ」

 店主はそれだけ言って、洗った徳利を棚へ戻した。

 瑛介はギター買い取りの画面を閉じた。代わりに、以前断った音響会社の業務委託募集を開く。昼は配信やイベントの音を整え、夜に自分の曲を作る仕事だった。自由が減るのが怖くて応募しなかったが、自由という言葉で請求書まで恋人に背負わせていた。

 応募欄には、週三日からと書かれている。音楽を捨てるか、恋人を失うかという二択にしていたのは、誰でもない瑛介自身だった。生活を整える小さな選択を、才能への裏切りと呼んで避けてきた。

 明日、履歴書を送る。滞っている二件の請求書も出す。彼女へ「変わるから戻って」とは送らない。採用される保証も、音楽を続けられる保証もない。彼女がもう待たないと決めたことも変わらない。

 椀の底には、小さくほどけたしんじょが沈んでいた。瑛介は出汁ごとすくった。柔らかさの中に残る海老の歯応えと、喉を通る温度が、酒より長く胸に留まった。