樟脳の火縄

赤松砦の裏切り者は、火縄に樟脳を塗る癖があった。

湿った夜でも火が消えにくく、甘い煙が残る。鉄砲頭の鳴海新蔵は、南櫓で殺した内通者の懐から、その火縄を抜き取った。

敵との約束は単純だった。子の刻、南櫓から一発撃てば、火薬庫の見張りを外した合図。包囲軍は南門へ殺到する。

城主は夜明けまで持たない。北の谷へ民を逃がすには、敵を南へ寄せるしかない。裏切りの合図を、こちらの合図として使う。

新蔵は火縄銃へ玉を入れなかった。火薬だけを詰め、口を土壁の外へ出した。樟脳の煙は敵の物見にも分かる。

隣には、内通者の弟である若武者・伊佐地が縛られていた。

「兄は門を売ったのか」

「売る前に死んだ」

「誰が斬った」

「俺だ」

伊佐地は俯かなかった。斬られる者の目ではなく、答えを測る目をしていた。

「その銃を撃てば、兄の約束どおり敵が来る」

「そうだ」

「なら兄は、死んでも城を落とす」

新蔵は火皿へ火縄を近づけた。

「誰の手で落ちるかは選べる」

城内の太鼓が一つ鳴った。子の刻。南の敵陣でも松明が伏せられ、兵が立つ気配が広がる。

伊佐地が縄を引いた。

「撃つな。敵は兄が死んだと知っているかもしれん。合図を待っているふりだ」

読み合いは一つだった。敵が内通者の死を知っているかどうか。知っていれば、空砲を撃った瞬間に逆側へ回る。

新蔵は樟脳の火縄を鼻へ寄せた。甘い匂いの下に、油の臭いがある。敵の軍用火縄油だ。内通者が自分で塗ったのではない。敵から渡された新品だった。

なら、敵は彼が死んだことをまだ知らない。

「兄貴は最後まで、他人の道具を使った」

新蔵は引き金を絞った。

銃声が夜を割り、樟脳の白煙が南櫓から流れた。新蔵は煙の向こうに、門を買った敵の顔を見た。売った者も買った者も、朝には同じ死体になる。敵陣の松明が一斉に南へ走る。

伊佐地の縄を切ると、新蔵は空の銃を渡した。

「北へ行け」

「お前は」

「次の一発には玉を入れる」

南門の外で梯子が立ち始める。

その音に背を向け、赤松砦の北谷門が開いた。