歯ブラシを一本戻す

浜口亜沙の歯ブラシは、俊介の洗面台で三か月前から青いコップに立っていた。

隣には俊介の黒い歯ブラシ。二本が触れ合わないよう、いつも少しだけ離して置かれている。

「もうほぼ住んでるし、正式に来れば?」

日曜の朝、俊介はそう言った。亜沙は週に五日ここで眠り、自分の部屋へは着替えを取りに帰るだけだ。家賃を二重に払うことも、毎回化粧品を運ぶことも、確かに馬鹿らしかった。

その夜、自分のワンルームへ戻ると、洗面台の棚に未開封の歯ブラシが一本あった。買ったことさえ忘れていた。冷蔵庫には賞味期限の切れた卵、ベッドには畳んでいない洗濯物。暮らしていない部屋ではなく、暮らすことを途中でやめた部屋に見えた。

二十九歳の手帳には、俊介の予定ばかり書かれている。彼が早い日は夕食を一緒に。彼が休みなら遠出。頼まれたわけではない。亜沙が自分から、二人の生活らしい形へ寄せていった。

スマートフォンには二件のメッセージが届いた。

〈今夜もこっちで食べる?〉

〈合鍵、作っておこうか〉

どちらも嬉しいはずなのに、返事を考えると息が浅くなった。

亜沙は未開封の歯ブラシを開けた。白い柄に、自分の名前を油性ペンで書く。俊介の部屋から持ち帰った青い歯ブラシは捨てず、洗って隣へ並べた。

〈同棲はしない。しばらく泊まる日も減らしたい。嫌いになったわけじゃなくて、自分の暮らしを戻してから考えたい〉

送信すると、俊介から電話が来た。亜沙は出なかった。今夜話せば、泣いて撤回する気がした。

その晩、亜沙は久しぶりに自分の鍋で湯を沸かした。冷蔵庫の低い唸りと、上の階の足音がやけに大きい。俊介の部屋なら今ごろテレビがつき、二人分の皿が出ている。孤独が心地よいわけではなかった。戻したかったのは孤独ではなく、それを選べる夜だった。

静かな洗面台に二本の歯ブラシが立つ。どちらも亜沙のものだ。一本を選べない弱さではなく、二本とも自分で管理する面倒を、亜沙は今夜から引き受けることにした。