残圧ゼロの海
水深四十七メートル。祖父江晴嵩の残圧計は三十六を示し、時間回帰灯は〈最終〉の赤だった。
前を泳ぐ大鳥居弦が真鍮のコンパスを叩く。
「青いラインまで」
洞窟出口の青いガイドロープまで百二十メートル。弦はそこへ着く十二秒前、空気を失って死ぬ。そのたび晴嵩の回帰灯が発光し、二人を三分前へ戻した。
最初は自分の予備ボンベを渡した。途中で二人とも残圧が尽きた。次は近道へ入ったが、砂が舞って出口を見失った。泳ぐ速度を上げると弦の呼吸が荒くなり、かえって消費が増えた。九回目には、青いラインへ手が届いたまま弦の指が止まった。
成功条件は、弦が残圧一以上で青いラインをつかむこと。計算上、二人分の空気はない。どちらか一人なら届く。
最後の試行。
「青いラインまで」
晴嵩はうなずき、弦のレギュレーターへ自分のステージボトルを接続した。弦が首を振る。晴嵩はコンパスを奪い、その針を出口へ向けて見せた。言葉の代わりに、手で〈先へ〉と示す。
自分のメインボンベは残圧八。二人で交互に吸えば、また二人とも死ぬ。晴嵩はガイドロープを自分の腰から切り離した。弦が戻れないよう、足で強く蹴った。
弦のライトが青い線へ近づく。晴嵩の視界は狭まり、呼吸音だけが大きくなる。回帰灯は所有者の死亡では作動しない。対象である弦が死んだときだけ、時間を戻す装置だった。
青いラインの向こうで、弦の手が一度振られた。残圧二。
表示が〈条件達成〉へ変わる。晴嵩はレギュレーターを外した。
暗くなる視界の端で、弦のライトが出口の青へ溶けた。晴嵩は何度も聞いた「戻れ」という手信号を、初めて見ないふりをした。肺が吸うものを失うと、洞窟は驚くほど静かだった。回帰灯の赤は消え、黒い表示窓に自分の顔だけが映る。次の三分が存在しないことを確かめ、晴嵩は岩棚へ背を預けた。ガイドロープを握らなかった手だけが、潮にゆっくり開いた。
海面へ戻った弦の手には、真鍮のコンパスが握られていた。針は北を指していたが、晴嵩の遺体が沈んだ方角だけは、どの目盛りにも刻まれていなかった。