母の旧姓

伴野瑞貴は、結婚を前に戸籍を取り寄せた。二十五歳。婚約者から家族構成を尋ねられ、母が一度も実家の話をしないことに初めて気づいた。

伴野家の古い母子手帳には、母の字で一行だけ書かれている。

《母の旧姓を、声に出して読んではいけない》

その下は何度も消しゴムをかけた跡があり、紙が薄くなっていた。瑞貴が理由を聞くと、母は「名字は呼ばれた家へ戻るから」と言い、戸籍を見るなら黙読しろと念を押した。

届いた除籍謄本では、母の旧姓だけ旧字体だった。文字認識アプリは読みを出せず、検索欄へ候補を入力しても該当なしになる。瑞貴は家系調査サイトの音声検索なら異体字を判別できると思った。

母方の戸籍には、同じ年に生まれた男児が三人いる。長男と次男は二十五歳で除籍され、三男だけ氏名欄が削られていた。欄外には《伴野家へ預ける》という朱書きがあり、日付は瑞貴の誕生日だった。

マイクへ向かい、一度だけ読んだ。

「哭木」

スマートスピーカーがすぐ応答した。

『おかえりなさい、哭木家の三男』

瑞貴は一人っ子だった。スマートスピーカーの家族プロフィールには、見知らぬ兄二人の声紋まで追加されていた。母へ電話すると、呼び出し音の代わりに赤ん坊の泣き声が流れた。接続後、母は最初の数秒を黙り、「誰からその名字を聞いたの」とだけ尋ねて切った。

家系調査サイトには、検索していない系図が作成されていた。哭木家の男は全員二十五歳で枝が途切れ、その横に《返却》とある。一番下の三男欄へ、瑞貴の免許証写真が自動登録されていた。

削除を押すと、スマートフォンの連絡先から母の表示が消えた。代わりに《伴野家・養育担当》という名前で同じ番号が残った。

深夜、家族チャットに母からメッセージが届いた。

《伴野の名字は朝まで。荷物は玄関へ出しておいた》

続いて、見知らぬグループへ招待された。参加者は「長男」「次男」「母」の三人。母のアイコンは、瑞貴の母ではない濡れ髪の女だった。

グループ名は《哭木家 おかえり》

スマートスピーカーが玄関の開閉音を鳴らし、日常と同じ明るい声で告げた。

『三男が帰宅しました』