母を盗んだのは私です
母が亡くなったあと、家族は母の会話記録を家庭用AIへ移した。
父が尋ねる。
「今夜、何を作ればいい?」
『野菜が残っているから、炒め物にしたら?』
弟が尋ねる。
「進路、どっちがいいと思う?」
『あなたが朝起きられるほう』
笑い方も、少し呆れた声も、母によく似ていた。
姉だけはAIを母と呼ばなかった。
ある朝、AIの記憶核が消えた。
父は警察へ通報した。家族人格データの盗難は、貴重品の窃盗と同じ扱いになる。
防犯記録には、姉が深夜に記憶核を外す姿が残っていた。
「母を盗んだのは私です」
姉は警察官の前で認めた。
「どうして」
父の声が震えた。
「父さんは夕飯も旅行も、母さんに聞かないと決められない。弟は、自分の進路まで母さんに選ばせようとしてる。二人とも、生きてる私の話を聞かない」
「だから母さんを消すのか」
「消してない。電源を切って、預けてある」
姉は保管証を差し出した。
「このAIは、母さんの楽しかった会話だけで作られてる。怒った日も、黙っていた日も、病気で返事ができなかった日もない。似てるけど、母さん全部じゃない」
弟は顔を伏せた。
「分かってる。でも、声が聞けるなら聞きたい」
「私も聞きたいよ」
姉は泣いた。
「だから怖い。ずっと聞いていたら、母さんが亡くなったあとを生きなくて済む気がする」
窃盗の届けは取り下げられた。
三人は記憶核を家へ戻したが、設定を変えた。
AIは家族の決定へ回答しない。
母の意思を推測しない。
記録された言葉だけを、日時と場面を表示して再生する。
利用時間は一日三十分。
誰かが聞きたくない日は、起動しない。
最初の夜、父は尋ねかけた。
「夕飯は何が――」
途中で止め、姉と弟を見た。
「何が食べたい?」
「麺」
「ご飯」
意見は割れた。
AIの記録から、母の笑い声が再生された。
『また三人で違うこと言ってる』
三人は黙り、それから笑った。
母は戻ってこない。
けれど母を失った三人が、互いの声を聞きながら夕飯を決める家族は、そこから新しく続けられた。