母を知らない指
水守伊吹は仕事帰り、毎日同じ病院の受付で手首をかざす。入院患者への面会は、対象者への愛情値が六十五以上。それが病室での虐待や金銭要求を防ぐ唯一の門だった。
母の節子に対する伊吹の数値は、いつも七十前後だった。
その日は六十四だった。
《面会不許可》
伊吹はもう一度かざした。六十三。
朝、母から「洗濯物の畳み方が雑」と電話で責められた。子どもの頃から、褒められた記憶より叱られた記憶のほうが多い。三年間、仕事のあとに通い続け、食事を手伝い、爪を切り、それでも優しい気持ちだけでいられる日は少なかった。
母は病気になっても謝らなかった。伊吹も、謝ってほしいとは言えなかった。代わりに靴下の左右をそろえ、肌着の縫い目が当たらないよう裏返して畳んだ。愛情というより、長く繰り返した手順に近かった。
受付の女性は透明な仕切り越しに言った。
「六十五未満ですと、患者様へ心理的負担を与える可能性があります」
「母が今日、検査結果を聞くんです。一人にしたくない。悪い結果だったとき、あの人は平気なふりをするから」
「お気持ちではなく数値で判断しております」
そこへ、交代の介助員が来た。乃亜という若い女性で、母とは先週会ったばかりだ。
彼女が手首を置く。
《愛情値六十八。面会許可》
伊吹は思わず笑った。
「一週間で、俺より愛してるんだ」
乃亜は困ったように小声で言った。
「仕事ですから、嫌いになる理由がまだないだけです」
扉が開く。奥の廊下から、母の声が聞こえた。
「伊吹は? あの子、遅いわね」
伊吹は仕切りに掌を当てた。向こうから見えないガラスだった。
端末に通知が届く。
《患者・節子の面会希望値:九十四》
《希望対象との相互性が確認できません》
乃亜が扉を押さえたが、ゲートは一人分だけを数えて閉じた。
伊吹は母の洗濯物が入った袋を足元に置いた。柔軟剤の匂いは、母が昔から使っているものだった。
数値は六十二に下がった。それでも袋のシャツを、いつもの畳み方に直した。