母を預ける練習
弟の結婚式まで一か月になったころ、姉は言った。
「私は行けない」
母は一人で立てず、食事にも介助が要る。二年間同居してきた姉には、朝から夜まで家を空ける選択肢がなかった。
「一日だけだよ」
弟が言うと、姉は笑った。
「あなたにとってはね。私には一日だけがないの」
「じゃあ、短期入所を使えばいい」
「簡単に預けろって言わないで」
「俺の結婚式は簡単なの?」
弟は、姉が自分を罰しているように感じた。
姉は、弟が介護を祝い事の邪魔として扱っているように感じた。
母は二人の間で、うまく動かない口を開いた。
「行き……なさい」
「お母さんを置いて?」
「置く、ちがう」
ケアマネジャーを交え、三人で短期入所の見学へ行った。
姉は食事の固さ、薬の時間、夜の寝返りを細かく説明した。弟は隣で初めて、それらをすべてメモした。
「こんなにあるの」
「二年分、私の頭に入ってた」
試しに半日だけ預ける日を作った。
母は施設で昼食を食べ、姉と弟は近くの喫茶店へ行った。姉は何度も時計を見た。
「何かあったら電話が来る」
「分かってる」
「不安なら戻る?」
「戻らない練習をしてる」
弟は、結婚式当日だけでなく、月一回の短期入所費用と送迎を自分が担当すると申し出た。
「式のためだけじゃない。姉ちゃんが休む日を、今まで俺が考えてなかった」
姉はすぐには礼を言わなかった。
「一回やって終わりにしないで」
「しない」
結婚式の日、母は施設から映像で参加した。画面の中で花嫁を見て、何度も拍手した。
姉は二年ぶりに、途中で呼ばれる心配をせず食事をした。祝辞の途中で泣いたのは、弟の結婚がうれしかったからだけではない。
帰りの車で、弟が言った。
「預けてよかった、って言うと怒る?」
「施設を使えてよかった。でも、母さんを預けたんじゃない」
「じゃあ何を?」
「私一人が全部持つ形を、少し手放したの」
翌月の短期入所の日、弟は朝から実家へ来た。
姉は鞄を持って玄関を出た。
「どこへ行くの」
「まだ決めてない」
「夕方までには?」
「帰る。でも、一日だけとは言わないで」
弟はうなずいた。
家族が介護を続けるために必要なのは、誰かが休まないことではなかった。
安心して休める日を、きょうだいで本当に作ることだった。