毒杯の保管条項

王宮の月見宴で、エステルナ・クラーヴェの婚約者ガイゼン・ペルドは、毒に曇った杯を掲げた。

「聖堂長の杯へ眠り毒を入れたのはエステルナだ。冷酷な女との婚約を破棄する!」

杯は彼女の家から贈った品だった。客たちの視線が突き刺さるが、エステルナは一滴も涙をこぼさず、杯の貸与契約を取り出した。

「第五条。月の第一鐘以降、杯の保管責任は宴の主催者へ移る」

今夜の主催者はガイゼンだった。彼女が条項へ触れると、契約魔法が保管責任者の紋章を杯の表面へ映す。第一鐘から毒が検出された第三鐘まで、浮かんだのはペルド家の赤鷹だけ。

「私の責任は、鐘が鳴る前に終わっています」

「お前が事前に仕込んだのだ!」

「契約魔法は、移管時の状態も封じます。第一鐘の時点で杯は無毒でした」

証拠は一枚の貸与契約のみ。だが毒杯はガイゼンの手の中で赤く脈打ち、彼の責任を示し続けた。

杯の貸与契約を細かく定めたのもエステルナだった。以前、貴族同士が毒物事件の責任を使用人へ押しつけたのを見て、保管時刻と状態を必ず残す仕組みに変えた。ガイゼンは署名の際、『疑い深い花嫁だ』と笑った。その疑い深さに、自分が救われる日が来るとは彼も考えなかったのだろう。エステルナは曇った杯を見つめる。眠り毒は命を奪わない。けれど濡れ衣は、名誉も自由も一度に奪う。その方が彼には都合がよかった。

「……誤認だ。今の告発は忘れろ。婚約は維持する」

「忘れれば、次は本物の毒を飲まされそうです」

エステルナが杯を置くと、皇太子イスカリオン・サンベルトが来賓席から一人だけ歩み出た。彼は彼女を背へ隠さず、横に並ぶ。

「帝室の宴では、物品移管の監督官が必要だ。あなたの正確さを借りたい」

ガイゼンが叫ぶ。

「皇太子殿下、これは私の婚約者です!」

「今しがた破棄したのは、君だ」

イスカリオンはそれ以上庇わず、エステルナへ掌を開いた。

「役目も、私との縁も、強制はしない。毒杯のない場所へ進みたいなら」

エステルナは自分で婚約指輪を外し、ガイゼンの前へ置いた。彼に背を向け、何も入っていない皇太子の手を取った。