氷点下の予備鍵
巻島志緒がバイオバンクで引き継ぎを受けた午後、マイナス八十度の保管庫が警告音を鳴らした。
翌日から産休に入る菱沼景乃は、希少疾患の検体千二百本を一人で管理してきた。最後の仕事は、霜取りのため第一保管庫から予備庫へ百本を移すことだった。
「警告が出ても、五分なら平気。予備庫は奥の扉」
志緒が箱を持って奥へ行くと、扉の認証ランプが赤く光った。自分の職員証には権限がない。主任のカードも通らない。景乃が首から下げたカードだけが、予備庫を開けた。
志緒は箱を戻し、霜取りを中断した。温度記録を見ると、第一保管庫はすでに上昇を始めている。景乃は「私が開けるから続けよう」と言ったが、明日同じ警告が出れば、景乃はいない。
志緒は施設管理へ連絡し、権限表を確認した。予備庫は三年前の研究班名のままで、現在の担当者が一人も登録されていなかった。彼女は可搬式冷凍庫を借り、検体を十箱ずつ移す手順へ変えた。新人には「箱を抱えて待たないで。赤いランプが出たら、まず元の庫へ戻す」と伝えた。
百本の中には、同じ病気を持つ家族から十年かけて集めた検体もあった。一本を失っても代わりは採れない。主任が予定の遅れを気にする横で、志緒は箱ごとの温度を紙にも写し、電源が落ちても移送順が分かるようにした。景乃が頭の中で覚えていた棚番号も、その場で写真付きの一覧へ変え、更新日と確認者、次回点検日の欄も付けた。
温度は基準を一度も超えず、移送は夕方に終わった。
景乃はロッカーから小さな鍵束を出した。停電時の非常扉を開ける鍵だという。
「これも私が持ってた。家が近いから、夜中に呼ばれても来られたし」
志緒は鍵束を受け取らず、封印袋へ入れた。共有保管箱を設置し、夜間担当を二人以上にする当番表と、認証権限の定期点検を申請する。
主任は「そこまで決めるなら、検体管理責任者を頼みたい」と言った。
志緒は申請が承認された通知を確認してから、役職受諾の欄に署名した。