河童の敷金は胡瓜一本
川沿いの不動産屋「境目」は、橋の下に入口がある。
澄佳がしゃがんで暖簾をくぐると、苔色の背広を着た河童が、緑の巻尺で机の端を測っていた。
「人間は境界を汚す」
店主の水守は、相談料として胡瓜一本を要求した。現金は信用できないが、胡瓜の曲がり方には性格が出るらしい。
澄佳はスーパーの袋を差し出し、今の部屋から逃げたいと話した。
向かいの住人に帰宅時間を覚えられ、廊下で待たれるようになった。管理会社には「気にしすぎ」と言われた。友人にも、引っ越したら負けみたいで悔しくないの、と聞かれた。
「逃げるのは、負けですか」
「勝ち負けを持ち込むから、人間は境界を汚す」
水守は胡瓜をかじりながら、澄佳の鞄についた白い粉を指で取った。次に靴底を見て、巻尺を伸ばす。
「今朝、玄関前に線がなかったか」
「チョークで、短い印が」
「部屋を確かめた印だ。お前が引くべき線を、相手が先に引いた」
背中が冷えた。
水守はすぐに警察相談窓口の番号、管理会社への文面、荷物を運び出す順番を書いた。紹介された部屋は、駅から遠いが二階で、大家が一階に住んでいる。契約名義を知られにくい手続きまで整っていた。
「どうして、そこまで」
「人間は嫌いだ。嫌いなものが勝手に他人の領域へ入るのは、もっと嫌いだ」
水守は緑の巻尺を澄佳の足元へ置き、半径一メートルの円を描いた。
「ここから内側は、お前が許したものだけだ。悔しさも友人の意見も、外へ出せ」
円の中へ立つと、橋の騒音が急に遠くなった。自分の呼吸だけが聞こえた。澄佳は、怖かった、と初めて声にした。水守は頷かず、巻尺の端を押さえていた。
引っ越しを決めると、胸の奥にあった敗北感が少し薄れた。
帰り際、水守は食べかけの胡瓜を紙に包み、澄佳へ返した。
「相談料では」
「敷金だ」
「何の」
「新しい境界の」
胡瓜には、巻尺で一センチごとに小さな傷がつけられていた。
「人間は境界を汚す。だから最初に、自分で測っておけ」
橋の外へ出ると、雨上がりの川が光っていた。澄佳は胡瓜を握り直し、今夜泊めてほしいと友人へ電話した。