治療証の裏側
「治療証をこちらへ」
白樹治療師ギルドの受付係リネは、毎朝同じ言葉を百回ほど口にする。
熱のある子どもには水を出し、指を切った冒険者には包帯を渡し、料金が足りない老人の申請書には黙って減免印を押す。治癒魔法を使う姿は誰も見たことがない。
高位治療師たちは、彼女を「魔力がないから受付へ回された娘」だと思っていた。難しい患者を救ったあと、書類の誤りを指摘されると、「印を押すだけの者が口を出すな」と笑う。それでもリネは、彼らが見落とした薬の重複だけは毎回そっと直した。
新人治療師メーヴェも、リネを親切なだけの事務員だと思っていた。
午後、顔色の悪い巡礼者が窓口へ来た。
差し出された治療証には、病名ではなく黒い眼が描かれていた。
眼が開く。
巡礼者の皮膚を破って、疫病精霊《千咳》が立ち上がった。息を一度吐けば街一つが死ぬ、古代の病魔だ。
結界が閉じ、待合室の時間が止まる。
動けたのは、薬棚の陰で禁術書を読んでいたメーヴェだけだった。
リネは困ったように眉を下げる。
「受付で咳をされると、書類が飛ぶのよ」
彼女は治療証を裏返し、白い面へ指で一本の樹を描いた。
紙の樹から伸びた枝が病魔の喉へ入り、黒い息を一滴残らず吸い上げる。《千咳》は抵抗しようと膨らんだが、リネが受領印を押した途端、小さな種へ縮んだ。
巡礼者は傷一つなく椅子へ戻る。
リネは種を薬瓶へ入れ、瓶の札に《未発芽・永久保管》と書いた。病魔に触れられた待合客の肺も一人ずつ確かめ、まだ生まれていない咳まで指先で摘み取る。その間、止まった時計の秒針は一目盛りも進まない。
その文字の下、淡い光で別の署名が浮かぶ。
――白樹治療師ギルド創設者、始祖医リネ。
彼女は停止した時間をほどき、破れた皮膚も黒い眼も、人々の記憶から消した。待合室には薬草の香りだけが残る。
メーヴェが震えながら禁術書を閉じると、リネは見逃さなかった。
「勤務中の読書は減点です」
その声はいつもの受付係そのものだった。
次の患者が、転んですりむいた膝を見せる。
リネは新しい申請書を差し出した。
「治療証をこちらへ」