海の見えない無料宿泊

高級ホテルのチェックアウト列で、稲荷崎鉄矢は若いフロント係へ領収書を投げた。

「海が見える部屋を予約したのに、朝は霧で真っ白だった。全額返金して、次回のスイートも無料にしろ」

係員が天候は保証対象外だと説明すると、稲荷崎はカウンターへ身を乗り出した。

「客に口答えするのか。今から『壁にカビがあった』って写真を投稿してやる。支配人を土下座させろ」

列の後ろにいた、黒い革コートの大男が杖を鳴らした。白髪を短く刈り、眉間に深いしわがある。

「カビは、昨夜泊まった別のホテルの写真ですな」

稲荷崎が振り向く。

男は御所脇正継と名乗り、弁護士登録証を見せた。長年裁判官を務めた後、弁護士になった人物だった。

「待っている間、あなたのスマートフォンが見えました。写真検索の結果画面と、別ホテルのロゴが映っています」

稲荷崎は、覗き見だと騒いだ。

御所脇は一歩も近づかない。

「画面を頭上へ掲げて店員へ見せていたでしょう。私は、虚偽の情報を公開すると告げて利益を求める発言の目撃者です」

支配人が到着し、客室記録を確認した。稲荷崎は午後三時から翌朝十時まで滞在し、ルームサービス、映画、有料ミニバーを利用していた。夜にはホテルの公式アプリへ「最高の夜景」と写真を投稿している。

さらに、持ち帰ったバスローブ二着が荷物検査ではなく、本人の公開した旅行動画に映っていた。

「返せばいいんだろ。大げさなんだよ」

支配人は返金を拒否し、バスローブ代と虚偽投稿による被害が生じた場合の請求について書面を渡した。今後の系列ホテル利用も断るという。

稲荷崎は御所脇へ向かって「年寄りは黙ってろ」と吐いた。

御所脇は穏やかに答えた。

「年を取ると、霧の向こうにないものまで見えたとは言わなくなります」

ホテルの警備員が到着し、稲荷崎の脅迫的な発言が記録された音声を保全した。

系列全店の宿泊拒否登録が完了し、御所脇が目撃者確認書へ署名した瞬間、霧のせいで無料宿泊を得るはずだった男には、二度と泊まれないホテルだけが増えた。