海抜三メートルの部屋

移住案内の封筒に入っていた地図には、町が二色で塗られていた。

青は津波浸水想定区域。白は高台。

莉子が内見した部屋は、海から三百メートル、海抜三メートルの青い場所にあった。窓を開けると潮の匂いがし、夕方には漁船の灯りが見える。高台の部屋は安全で新しく、窓から海は見えなかった。

不動産会社からの電話は一回だけだった。

「どちらも今日まで押さえています。決まりましたか」

莉子は答えを待ってもらい、二本のボールペンを机に置いた。青いペンは海辺の申込書用、黒いペンは高台用。そんな分け方に意味はない。それでも二つの未来が、色の違いで急に具体的になった。

二十九歳まで故郷に戻らなかったのは、災害が怖かったからではない。町を出た十八歳の自分に、帰るのは負けだと思われそうだったからだ。

しかし今、海辺の部屋を選ぶことは勇気ではない。危険を美談にするのも違う。高台を選ぶことは臆病ではない。どちらにも、暮らしたあとの面倒がある。

莉子は防災マップを広げた。避難路、夜間照明、階段の勾配。海辺の部屋から高台までは徒歩九分。高台の部屋から海辺の図書館までは徒歩二十二分。

「景色」ではなく「逃げ道」を考えている自分に、少しだけ安心した。

二つの部屋の写真を裏返す。海辺の部屋には青いカーテン、高台の部屋には薄い灰色のカーテンが残されていた。どちらの住人も、もうそこにはいない。以前の誰かが選んだ色を、自分の未来の象徴にしてはいけないと思った。入居したら最初にカーテンを外し、自分で買う。それが莉子にできる、ささやかな準備だった。

電話をかけ直し、高台の部屋を選ぶと伝えた。担当者は意外そうに、「海が見えなくてもいいんですか」と聞いた。

莉子は窓の外の東京のビルを見た。

「見たくなったら、歩いて行きます」

黒いペンで申込書に署名する。青いペンは捨てず、防災マップの避難経路をなぞるために使った。

帰郷を、海への憧れだけで決めなかった。

見えない海まで二十二分歩く生活を、自分で選んだのだ。