消えたブランチ
世界同時配信まで六時間。完成版のゲームが起動しなくなった。
社内チャットに、黒羽乃亜の投稿が流れた。
〈古いデータが邪魔だったので整理しました☆〉
削除されたのは「古いデータ」ではなく、三年分の安定版ブランチだった。予約特典も翻訳データも、起動に必要な鍵まで消えていた。乃亜は最高経営責任者の娘で、肩書だけはクリエイティブ統括。会議では私の企画を自分の案として話し、作業時間の大半を配信に使っていた。
「淡路谷さん、戻しといて。得意でしょ、地味な仕事」
私は返事をせず、個人判断で毎晩保存していた隔離バックアップを接続した。半年前、乃亜が「バックアップは後ろ向きな人が作るもの」と予算を切ったため、使っていない検証機へ密かに複製していたものだ。予約購入者は百万人。復旧画面の進捗が一%増えるたび、広報室の時計だけが大きく鳴った。
復旧には五時間四十分。配信開始二十分前、最終ビルドが通った。テスト担当が泣きながら親指を立て、私は初めて椅子の背にもたれた。
その直後、海外パブリッシャーと投資家の緊急会議が始まった。
乃亜はカメラへ笑いかけた。
「トラブルも演出です。私の指揮で復旧しました」
パブリッシャーの技術責任者が画面を共有した。削除命令の実行者、復旧作業者、時刻が一行ずつ表示される。削除は乃亜。復旧はすべて淡路谷遼。
さらに投資家側の弁護士が、黒羽CEOによる娘の配信会社への不正発注を示した。すでに取締役会はCEOの解職を決めていた。
乃亜の笑顔が止まった。
「でも、この作品の顔は私なんだけど」
パブリッシャー代表が答えた。
「契約更新の相手は淡路谷さんです。彼が開発責任者でなければ、次回作には出資しません」
人事責任者が続けた。
「黒羽乃亜さんはデータ破壊、虚偽報告、職務怠慢により懲戒解雇です」
乃亜が何か入力しようとした瞬間、チャットに灰色の通知が出た。
〈kuroba-riko はワークスペースから削除されました〉