消灯前の屋上
十九時五十分。室伏准平は取り壊し前の社員寮の屋上で、浅葱愛梨から真鍮の鍵を受け取った。消灯まで十分。二人は五年前、この屋上で友人から恋人になり、三か月後には何も言えない他人へ戻った。鍵は、夜勤で遅くなる准平のため愛梨が管理人から借りたものだった。交際中も別れた後も、彼女は風の強い夜だけ屋上を開け、給水塔の裏へ缶コーヒーを二本置いた。准平は一本減っている理由を、同じ寮の誰かだと思い込んでいた。空き缶の底には毎回、小さく日付が書かれていた。准平が赴任先から戻った夜だけ二本とも残り、それを偶然だと片づけた。鍵の歯には、彼女がつけた青い塗料が残っている。
今夜ここへ来たのは、マッチングアプリで再会したからだ。愛梨の写真は夜景だけで、名前も仮名だった。それでも自己紹介の〈風が強い日は給水塔の裏〉という一文で分かった。最初のキスをした場所だった。
「右にしたの、私だと分かって?」
「たぶん、そうかなって」
「たぶんなんだ」
准平は曖昧に笑った。愛梨は来週、結婚相談所で知り合った人と正式に交際を始めるという。アプリは今夜退会するらしい。
「ここで何か言われたら、断ろうと思ってた」
「何かって?」
「それを説明させるから、私たちは駄目だったんだよ」
屋上の照明が一列ずつ消える。准平は昔も、愛梨の「大丈夫」をそのまま受け取った。海外赴任を告げた夜、彼女が泣かなかったから安心し、追いかけてほしかったことに気づかなかった。
愛梨は鍵を手のひらへ置き、階段へ消えた。扉が閉まると同時に、アプリが震える。送信時刻は十九時四十九分。寮の厚い壁で遅れて届いた。
〈好きだった。今も、たぶん。准平が一度でも「行くな」と言ったら、下へ戻る〉
准平は扉を開けた。階段の下で車のドアが閉まり、エンジン音が遠ざかる。電話をかけようとしたが、画面は〈退会したユーザーです〉へ変わった。
二十時、管理人が屋上を閉めに来た。准平は愛梨の体温が消えた鍵を、返却口へ落とした。