湯気の向こうの耳

 花房紬希は、システム障害の復旧を終えた朝、駅前の銭湯へ寄った。

 三十時間ぶりに湯船へ浸かり、ようやく自分の肩が石ではなかったと思い出した。外へ出ると、裏口の給湯器の下に、濡れた三毛猫がうずくまっていた。

 番台の主人は「昨日からいる」と言った。

 首輪はなく、呼びかけても動かない。ただ、湯気が流れてくるたび、片耳だけをそちらへ向けた。

「温かいところが好きなんだな」

 紬希がしゃがむと、猫は彼女の靴の上へ前足を置いた。

 そのまま動物病院へ連れていき、迷い猫の届けを出した。預かるのは一週間だけ、と決めた。

 猫は「湯玉」と呼ぶことにした。風呂上がりの湯気が丸く固まったような体をしていたからだ。

 湯玉は、紬希が帰ると必ず浴室へ向かった。

 空の浴槽を覗き、蓋の上に座り、風呂が沸くまで待つ。紬希がシャワーだけで済ませようとすると、脱衣所で低く鳴く。

「今日はもう無理。寝たい」

 それでも湯玉は動かない。

 仕方なく湯を張り、紬希が肩まで沈むと、猫は蓋の端で前足を折りたたんだ。

 最初の数日は、その時間さえ惜しかった。湯船の中で仕事のメールを読み、障害報告の文面を考えた。けれど湯玉が濡れた鼻先で携帯を押し、危うく湯へ落としかけてから、端末は脱衣所へ置くことにした。

 湯の音だけを聞く十分間が、少しずつ長くなった。

 今日食べたもの。窓の外の雲。職場で誰かがくれた飴。考えても役に立たないことが、湯気の中へ浮かんでは消えた。

 湯玉は何も解決しない。ただ、紬希が上がるまで、そこにいた。

 一週間後、飼い主は見つからなかった。

 保護団体から引き取りの連絡が来た夜、紬希は浴室の扉を開けたまま、湯玉の背を撫でた。

「別の家の方が、昼も誰かいるかもしれない」

 湯玉は立ち上がり、彼女の膝へ前足をかけた。爪は出ていなかった。

 翌朝、紬希は「このまま迎えます」と返事をした。

 その晩は柚子の入浴剤を使った。甘く青い香りが狭い浴室へ満ち、湯玉の耳が湯気の向こうでゆっくり透けた。

 風呂上がり、猫の腹へ顔を埋めると、乾いた毛から日向と石鹸の匂いがした。仕事の警報音は、今夜だけ遠い場所にあった。