潮騒の公衆電話
海底の公衆電話から、婚約者が毎週かけてくる。あの事故で死んだはずなのに。
木曜日の午後三時、受話器が一度だけ鳴る。電話ボックスのガラスには海藻の影が揺れ、硬貨投入口から小さな泡が昇る。私は硬貨を入れたことがないのに、通話はいつもつながった。受話器を置くたび、コードは潮に引かれるようにゆっくり浮いた。ボックスの床へ落ちた涙は丸い粒になり、天井へ昇って消えた。
『今週も来たよ』
声は水の向こうから聞こえた。言葉の間に、規則正しい呼吸音が混じる。
「無理しなくていいのに」
『約束しただろ。結婚式まで毎週会うって』
式場は港の見える教会だった。招待状も指輪も用意していた。だが試し潜水の日、急な潮に流され、私たちは岩礁から離れた。気づけば暗い海の底で、互いの姿を見失っていた。
彼は、事故のあと何があったか話そうとしない。私が訊くと、「それは君のほうが知っている」と言う。代わりに陸の話をした。教会の鐘が修理されたこと、私の母が毎朝浜を歩いていること、式場が来月取り壊されること。私の部屋のカレンダーが、事故の日から一枚もめくられていないこと。
彼は毎回、海面の天気を話した。私には晴れも嵐も区別できず、光の強さが少し変わるだけだった。
「指輪は?」
『持ってる』
「見つかったんだ」
『最初から、僕が持ってた』
電話ボックスの外を銀色の魚が横切った。彼の声に合わせて、ガラスの向こうで光が上下する。私はそれを灯台の反射だと思っていた。
『今日は長く話せない』
「どうして?」
『酸素が残り三分だから』
呼吸音が急に荒くなった。ガラス越しに黒い影が近づき、丸いマスクの奥から彼の目がこちらを見た。胸には空気ボンベ、手には白い花。彼は海底へ設置された慰霊用の受話器を握っている。
私は自分の足元を見た。砂に沈んだ靴は、事故の日のままだった。電話ボックスの扉は開いているのに、私は一度も外へ出られない。
『また来週』
彼が浮上すると、泡が空へ帰っていった。私は受話器を戻した。ガラスに映ったのは、事故の日のウェットスーツを着た私一人だった。
次の木曜日まで、海底でベルを待つ。