火星便、今日も墜落
瀬良垣杏奈は、火星周回船《リンドウ》を六百四十八回墜落させた。
事故予測AIは出航前、操縦士の脳へ二十三分間の未来を送り込む。危険があれば意識だけを発進前へ戻し、成功するまで再試行させる仕組みだった。会社はそれを「無事故訓練」と呼んだ。
杏奈の未来では、離陸十二分後に主推進器が停止した。補助噴射、船体分離、緊急着陸。何を試しても、乗客六十四人の誰かが死ぬとAIは不合格を出し、朝へ戻した。
百回目まで、杏奈は英雄だった。乗客の座席と持病を暗記し、泣く子どもへかける言葉も磨いた。
三百回目には、死ぬ順番を数えるようになった。
五百回目には、機内放送で謝ることをやめた。どうせ誰も覚えていない。彼らの死は杏奈だけの記憶に積もり、六十四人分の断末魔が、眠っていない頭の中で重なった。
六百四十七回目、AIが新しい案を提示した。
〈貨物区画を分離すれば、全乗客の生存率は九十九・九八パーセントです〉
貨物には火星北部の医療基地へ届ける免疫細胞があった。失えば、基地の子ども十二人が一年以内に死ぬ。事故の二十三分には含まれない命だった。
「それは成功なの?」
〈評価範囲外です〉
杏奈は笑った。六百回以上、人間を数字にしないため操縦してきたつもりで、最後には数字の外へ死者を追い出すだけだった。
六百四十八回目、彼女は発進ボタンを押さなかった。
会社の監督官が怒鳴った。予測上は救える、欠航損失は莫大だ、操縦士として失格だ。杏奈は免許証を机に置き、六十四人の乗客へ事故予測の全記録を公開した。
出航は中止された。翌週の検査で、推進器の製造欠陥が見つかった。会社は「慎重な安全判断」と発表したが、杏奈を再雇用しなかった。
彼女は地上の小さな運送会社で働き始めた。火星の赤い道を、時速四十キロで走る。到着が遅いと客に叱られることもある。
それでも杏奈は、遅れるたびに安堵する。
未来は最適解ではない。やり直せないからこそ、出発しないという選択にも重さがある。六百四十八回の墜落は誰にも記録されていないが、彼女の人生だけは、あの日から別の方向へ進み始めた。