照明図の逃げ道
小劇場の壁は、図面の上では完璧な黒だった。
百二十席の客席を暗く、美しく見せる。それが照明設計事務所で鵜飼瑞希が担当する最後の仕事だ。退職届は、丸めた最終図と一緒に図面筒へ入れてあった。施主が求めたのは「光源の存在を感じさせない壁」。瑞希が仕上げた図面にも、壁面灯は細い溝へ隠してある。
だが施工会社から届いた代替品リストを重ねると、非常口の誘導灯まで木製パネルの奥へ移されていた。客席から見えるのは、出口ではなく均一な黒い壁だけだ。
劇場の宣伝資料には、「闇そのものに包まれる没入空間」とある。瑞希も、その美しさを作るために何度も光量を削った。客席模型をのぞくと、黒い壁は確かに息をのむほど美しかった。けれど暗さは演出であって、出口まで消してよい理由にはならない。
「消防検査のときだけパネルを外せばいい」
所長は言った。開館は三日後。作り直せば追加費用が出る。
瑞希は図面を閉じず、避難経路の中心線を引いた。最後列から出口まで、煙で視界が半分になった場合の見え方を計算する。誘導灯を露出させるのではなく、壁の溝を出口へ向かって二センチ広げ、光の線が矢印になる修正案を描いた。
隣で作図していた新人の直が、所長の顔色をうかがって注記を消そうとした。
「そこは残して。意匠変更じゃなくて、避難に必要な寸法だと分かるように」
瑞希は施工会社へ修正版を送り、作業を一度止めた。所長は「退職前に揉め事を増やすな」と低く言ったが、瑞希は消防担当者も同報に入れた。
四十分後、回答が届いた。現状のままでは不適合。瑞希の修正なら、パネルをすべて撤去せずに済む。施工会社はその日のうちに加工し直すと返した。
所長は図面筒から白い封筒を見つけ、追加費用の説明書を瑞希へ返した。
「退職前に変更したんだ。施主への説明まで自分でやって」
瑞希は、意匠変更ではなく法令適合のための是正だと根拠を整理し、施工会社と施主へ同じ文面を送った。逃げ道は、図面の中だけにあればいいわけではない。
説明書を提出してから退職届を所長へ渡し、以前から届いていた劇場専門の設計事務所のメールを開く。
〈避難計画のレビューから担当できます〉
そう返信して、修正版の提出ボタンを押した。