片耳だけの新曲
十八時五十分。北見惺太はレコード会社の試聴室で、矢萩碧乃と一本ずつイヤホンを分けていた。利用終了まで十分。碧乃が海外配信する新曲の完成版を、二人で聴く最後の機会だった。
右は惺太、左は碧乃。高校の帰りに買った安いイヤホン以来、位置は変わらない。片方をなくして別々の製品を買っても、二人で聴く日は右と左を差し出した。通勤電車では、曲が終わるまで降りる駅を一つ通り過ぎたこともある。恋人のようだとからかわれるたび、碧乃は「音楽仲間」と笑い、惺太も同じ言葉を使った。
「移住、ほんとに三年?」
「契約は。帰る理由ができれば短くなるかも」
「向こうで見つければいい。理由」
碧乃は左のイヤホンを外した。
「最後まで聴かないの?」
「ミックス前から何度も聴いた。友達特権は十分使ったよ」
「そう」
噂では、現地のプロデューサーと交際しているらしい。惺太は確認しなかった。友人なら、本人が話すまで待つものだと思った。
曲の二番が終わる前に、碧乃はケースへ左側を戻した。右側だけを惺太の手に残す。
「これはあげる。もう片方は向こうへ持っていく」
「一組そろわないだろ」
「そろわないようにしたの」
十八時五十七分。碧乃は空港へ向かった。惺太は右だけで曲の続きを再生した。明るい旋律の下、右チャンネルの声が囁く。
〈友達でいられれば、それでいい〉
予想どおりの言葉だった。惺太は再生を止めた。
十九時直前、通信の遅れていた高音質版のダウンロードが完了した。確認のため、備え付けの両耳ヘッドホンで同じ箇所を聴く。右の囁きに、左チャンネルの碧乃の声が重なった。
〈――なんて、ずっと嘘だった〉
二つが同時に鳴って初めて、一つの文になる。その直後、左だけに続く。
〈惺太が右を外さなかったら、連れていってと言うつもりだった〉
時計は十九時一分。碧乃の搭乗手続きは始まっている。電話は電源が切られていた。
惺太は右のイヤホンをケースへ入れた。空いた左側を指でなぞり、蓋を閉じた。