片道の鍵を返す

 月面都市では、子どもの宇宙服に〈親綱〉がついている。

 親の端末から進路を制限し、酸素配分を変え、危険区域へ入れば強制的に帰還させる仕組みだ。

 二十歳の誕生日、娘の親綱は自動解除された。

「延長申請を出して」

 母が言った。

「嫌」

「外周測量の仕事は危険でしょう」

「だから訓練した。二十歳になってまで、帰る方向を決められたくない」

「事故が起きてからでは遅い」

「心配と操作を同じにしないで」

 娘は親綱の鍵を母へ返した。

 半年後、事故は母のほうに起きた。

 整備区画で月震が発生し、外壁を点検していた母の宇宙服が瓦礫に挟まれた。娘は管制室から通信をつないだ。

「右脚の推進器を切って」

「姿勢が崩れる」

「私の地図では、その下に固定梁がある」

「本当に?」

「信じて」

 娘の端末には、母の服を操作する権限がなかった。成人同士の装備は、本人の同意なしに外部から動かせない。

 母は震える指で、操作権の一時共有を選びかけた。

「押さないで」

 娘が止めた。

「どうして」

「意識があるなら、自分で動いて。私は指示するんじゃなくて、情報を渡す」

 かつて母が言っていた言葉を、娘は思い出していた。

〈歩けるなら、自分の脚で。転びそうなら、手を出す〉

 母は右脚の推進器を切った。体が回転し、見えなかった固定梁が現れた。娘が角度を読み、母が残った腕で掴む。

 二人で一つずつ判断し、救助艇までたどり着いた。

 病室で、母は返された古い鍵を掌に載せた。

「親綱があれば、もっと早く助けられた」

「私が勝手に動かして、母さんの腕を折ったかもしれない」

「それでも助けるのが家族でしょう」

「違う。家族でも、相手の体は相手のもの」

 母は長く黙ったあと、新しい鍵を差し出した。

〈相互救助鍵〉

 どちらか一方が救助を要請したときだけ接続され、解除も双方ができる。親から子への片道の命令ではなく、大人同士が合意して結ぶ仕組みだった。

「受け取ってくれる?」

「延長申請じゃない?」

「共同契約」

 娘は自分の端末を重ねた。二つの画面に同じ確認文が現れる。

〈相手を支配せず、見捨てず、必要なときは助けを求める〉

 二人で承認を押した。

 母はもう、娘を家へ引き戻すことはできない。

 娘も、母の人生を代わりに操ることはできない。

 それでも月の外へ出る日、互いの位置を知らせる小さな光だけは、同じ地図の上で灯るようになった。